日本歴史地名大系 「西塚村」の解説 西塚村にしづかむら 静岡県:浜松市旧長上郡・豊田郡地区西塚村[現在地名]浜松市西塚町神立(こうだち)村の北西に位置する。中世は蒲(かば)御厨のうちで、西須賀村のほか、上西須賀・下西須賀がみえる。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)によれば、定麦は下西須賀八石三斗余・上西須賀二石余・西須賀村一石三斗余、定豆は下西須賀六石五斗余・上西須賀二石九斗余・西須賀村一石余、定役は下西須賀六貫六四文・上西須賀二貫五六八文・西須賀村一貫七六七文。応永二九年(一四二二)閏一〇月一〇日の蒲御厨収納帳(同文書)の先納分帳に西須賀・上西須賀がみえる。 西塚村にしづかむら 新潟県:糸魚川市西塚村[現在地名]糸魚川市西塚谷根(たんね)村の東、越(こし)村の越川原(こしかわら)集落の南。口碑によれば、中世串橋伊兵衛なる者の開発といい(西頸城郡誌)、当地には串橋姓が多い。正保国絵図に高四七石余とある。天和三年郷帳では一一三石三斗余。村内には慶安三年(一六五〇)・承応二年(一六五三)・万治二年(一六五九)・寛文二年(一六六二)の年貢皆済状が残り、地高四四石八斗余に対し、慶安元年には免一〇・五で、年貢米四七石余の超高率となり、それに山高一石二斗余・青苧高二斗余が加わる。以後も高率が続き、寛文二年には免一一・七となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by