日本歴史地名大系 「西富田」の解説 西富田にしとみだ 徳島県:徳島市徳島城下西富田[現在地名]徳島市伊賀町(いがちよう)一―四丁目・弓町(ゆみちよう)一―四丁目・幟町(のぼりちよう)一―四丁目・大道(おおみち)一―四丁目・鷹匠町(たかじようまち)一―四丁目・紺屋町(こんやまち)・栄町(さかえまち)一―四丁目・勢見町(せいみちよう)一―二丁目・西富田町眉(び)山東麓、徳島城下南方の土佐街道口に形成された武家地。東は武家地東富田に接する。寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図では当地一帯は草深い土地として描かれているが、城下の整備拡張が図られるなかで下級士卒の屋敷や組屋敷が置かれ、社寺が眉山山麓に配置された。天和三年(一六八三)の渭津城下之絵図に西富田とみえる。富田の語源はドンタ(泥地・泥田)とされる低湿地ともいわれ、当地はとりわけ眉山の鉄砲水によってたびたび浸水する低湿地であった。同絵図にも眉山山麓から流れ出て、町割に沿って南流あるいは東流する水路三筋が描かれている。とりわけ東富田境の淡路(あわじ)町一帯には大きな水溜りや太い水路がみえている。規模は南北三二〇歩ばかり、東西二〇二歩(阿波志)。文化九年(一八一二)の島々丁名改目録では東富田、北方の北山路(きたやまじ)とともに富田として一括される。丁名のうち西富田に属するのは古馬場(ふるばば)・伊賀士(いがし)丁・御石(おいし)丁・西御厩(にしおんまや)丁・御弓(おゆみ)丁・幟丁・大道・鷹匠町・鷹匠町割地小路・定普請(じようぶしん)丁・馬場筋(ばばすじ)・正閑坊(しようかんぼう)小路・大師前(だいしまえ)通・光仙寺(こうせんじ)通・餌指(えさし)町裏通・餌指町の一六ヵ所で、このうち御石丁・餌指町裏通は当時新しく付けられた丁名であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by