西徳二郎(読み)にし・とくじろう

朝日日本歴史人物事典 「西徳二郎」の解説

西徳二郎

没年:明治45.3.13(1912)
生年弘化4.12.25(1848.1.30)
明治時代の外交官薩摩(鹿児島)藩士西藤左衛門の次男。嗣子竹一は陸軍大佐(オリンピック馬術金メダリスト,硫黄島戦死)。戊辰戦争では黒田清隆の下で長岡兵と戦火を交えた。明治3(1870)年7月ロシアに留学,8年ペテルブルク大法政科卒,9年3月フランス公使館2等書記見習,11年2月ロシア公使館に2等書記官として在勤,11月から13年3月まで代理公使の任にあった。13年7月から半年間中央アジア・シベリア・中国旅行を経験,帰国後14年6月太政官大書記官,軍事課勤務兼参謀本部御用掛,15年6月太政官大書記官兼宮内大書記官,同月アレキサンドル3世戴冠式参列の有栖川宮熾仁親王随行,19年6月駐露公使に任命され日清戦争,三国干渉の情報収集に忙殺された。30年3月枢密院顧問官に任命されるが同年11月第2次松方正義内閣,続く第3次伊藤博文内閣で外相となる。31年4月韓国問題に関する西・ローゼン協定に調印し日本の対韓経済進出をロシアに容認させた。同年10月駐清公使となり義和団の乱(1899)の中で1カ月半におよぶ北京籠城を経験,34年11月枢密顧問官に再任された。<著作>『中央亜細亜記事』<参考文献>坂本辰之助『男爵西徳二郎伝』

(波多野勝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西徳二郎」の解説

西徳二郎 にし-とくじろう

1847-1912 明治時代の外交官。
弘化(こうか)4年7月25日生まれ。西竹一の父。明治3年ロシアに留学,ペテルブルグ大でまなぶ。帰国後,太政官大書記官などを歴任。第2次松方・第3次伊藤内閣の外相をつとめ,31年韓国問題に関する西-ローゼン協定をロシアとむすぶ。翌年清(しん)(中国)駐在公使となり,北清事変では北京に籠城。枢密顧問官。明治45年3月13日死去。66歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の西徳二郎の言及

【大津事件】より

…彼は政府の行動を軟弱として国権論の立場から政府に抵抗した。 ロシア皇帝は日本が約言を守り,津田に死刑を宣告してロシアに対する礼儀をつくせば,ロシアが減刑を申し出ることにより皇太子殺害未遂事件を日露親善の契機に転じようとしていたが,大審院の判決はロシアにその機会を失わせたと駐露公使西徳二郎は批判している。津田は同年9月30日,釧路集治監で肺炎により病死した。…

【西=ローゼン協定】より

…1898年4月25日,第3次伊藤博文内閣の外相西徳二郎とローゼンR.R.Rosen駐日ロシア公使が東京で合意した,朝鮮の支配をめぐる日露間の議定書。この内容は,ロシアは日本がロシアの旅順港租借に抗議することを予期し,日本の関心を韓国にひきつけておくために,(1)韓国主権の尊重と内政不干渉を約束するとともに,(2)両国の同意なしに朝鮮に軍事・財政顧問を置かないこと,(3)朝鮮における日本の経済的地位の優越と日本・朝鮮間の商工業の発展を妨害しないことをロシアが認める,という3ヵ条からなる。…

※「西徳二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android