西根村
にしねむら
[現在地名]金ヶ崎町西根
南流する北上川の右岸に位置し、奥州街道が通る。南部を黒沢川が流れて胆沢川に注ぎ、胆沢川は南の八幡村(現水沢市)との境をなして北上川に合流。奥州街道の胆沢川渡河は、一流は舟橋、一流は渡船で渡った(水沢市の→八幡村)。江戸時代には仙台藩の要害があり、また奥州街道の宿としても賑った。宿町は北上川河岸近くに形成されて、金ヶ崎町とよばれた。文治五年(一一八九)の奥州合戦後、葛西氏は源頼朝から五郡二保を与えられ、そのなかに胆沢郡が含まれていたが、「奥州葛西動乱記」などによると同郡は上胆沢・下胆沢・西根に三区分され、西根は九郷からなっていた。西根九郷は針山・坂水・長志田・平沢・細田・辻脇・宿内・濁沢・荒巻をさしたという。また西根一二郷という呼称もあり、これは九郷に駒籠・荒谷および六原(相去村端郷)を加えた地域をいう。
西根村
にしねむら
[現在地名]雫石町西根
葛根田川右岸にあり、東は長山村、南は上野村、西は駒ヶ岳をもって出羽国と界する。正保国絵図に村名がみえ、高九〇石余。寛文一一年(一六七一)の繋村肝入館市家留書(瀬川文書)では高三八七石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二二九石余、七ヵ年平均の免は二ツ。元禄十郡郷帳による〆高は田方二三四石余・畑方一四七石余。宝暦一一年(一七六一)の雫石通高改書上帳(高橋文書)では高四三五石余、うち蔵分一一三石余で、給人は岩間勘右衛門ら三人と大宮神社別当円蔵院。「邦内郷村志」では蔵分一五一石余・給分二八三石余、家数六六、馬二四五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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