日本歴史地名大系 「八幡村」の解説
八幡村
やわたむら
- 千葉県:市原市
- 八幡村
現市域の北端部に位置し、
八幡村
やわたむら
- 宮城県:多賀城市
- 八幡村
八幡村
やはたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やわたむら
- 鳥取県:米子市
- 八幡村
藩政期の拝領高は一千二五九石余、本免は三ツ七分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一千二七二石余、竈数五〇。「伯耆志」の高一千二八〇石余、家数五三・人数二一七、土産として・砂糖をあげる。藪役銀一四匁・川役銀二匁を課されていた(藩史)。
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
八幡神社は八幡村・鍛冶屋村・
八幡村
やはたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 岩手県:水沢市
- 八幡村
正保郷帳によれば田方一八六貫八〇文・畑方六貫六一〇文。
八幡村
やわたむら
手取川右岸、
八幡村
やわたむら
中山道八幡宿を構成する一村。北は
永正元年(一五〇四)望月城主滋野遠江守が釈尊寺観音堂(現小諸市大久保)を修復し、「為仏供料近辺八幡村ニ而永楽二百貫文御寄進」(釈尊寺文書)の記録があるが、慶長一五年(一六一〇)の田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳(竹内文書)、元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)には矢島村の内八幡分または八幡村とあり、中世から独立村であったかどうか明らかではない。
八幡村
やわたむら
- 秋田県:横手市
- 八幡村
東は横手町、南は
八幡村
やわたむら
南東は山地、北西は耕地となり、北は
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 石川県:七尾市
- 八幡村
八幡村
やわたむら
- 千葉県:市川市
- 八幡村
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 栃木県:足利市
- 八幡村
渡良瀬川の南岸に位置し、
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
- 高知県:南国市
- 八幡村
「和名抄」記載の
八幡村
やはたむら
八幡村
はちまんむら
金木新田一八ヵ村の一つで、享保一二年(一七二七)の村位は下で免は四ツ成、大里村がこの年改名した(平山日記)。開村は金木新田開発に着手した元禄一一年(一六九八)以降と推定される。元文二年(一七三七)の検地帳によれば、田方四二町一畝一三歩、畑方四町四反一畝二八歩、田畑屋敷合せて四六町四反三畝一一歩、村高二三一・七二九石とある。田方は中・下田なく、下々田が四〇町九反四畝一〇歩で、新開田の条件の悪さを示している。文化六年(一八〇九)の藩吏覚書(中里町誌)によれば、田方四二町九反三畝二四歩、高二二一・一〇九石、畑方五町五反一畝二一歩、高一六・三二七石、戸数三五、人別一九一、馬六〇とある。
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
- 神奈川県:平塚市
- 八幡村
東境を相模川が流れ、西は
「吾妻鏡」建久三年(一一九二)八月九日条の、北条政子の安産祈願のため誦経を行った寺のなかに「五大堂八幡、号大会御堂」とみえる「八幡」は当村のこととされる(風土記稿)。
八幡村
やわたむら
八幡村
はつまむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 秋田県:湯沢市
- 八幡村
雄物川と
慶長五年(一六〇〇)一〇月二四日付の西馬音内則道宛小野寺義道書状(秋田藩家蔵文書)によれば、小野寺氏と秋田氏・由利衆・最上氏との抗争の折、小野寺氏の家臣としてこの地域に勢力をもっていた八幡氏は、小野寺氏の命に服さず、独自の行動をとっている。
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 千葉県:富津市
- 八幡村
八幡村
はちまんむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やわたむら
- 静岡県:浜北市
- 八幡村
八幡村
はちまんむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やわたむら
羽津村の北方、東海道に沿ってあり、西方には
八幡村
やわたむら
- 千葉県:館山市
- 八幡村
八幡村
はちまんむら
八幡村
やばたむら
- 三重県:名張市
- 八幡村
曲流する名張川を隔てて
八幡村
やわたむら
- 新潟県:新発田市
- 八幡村
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
- 愛知県:豊川市
- 八幡村
八幡村
やわたむら
八幡村
やわたむら
八幡村
はちまんむら
八幡村
やわたむら
八幡村
やはたむら
八幡村
やはたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報