西田原村
にしたわらむら
[現在地名]関市西田原
津保川南岸にあり、蜂屋川が北部で合流する。南西部は山方で、東部は平坦地。加茂郡に属し、南は迫間村。「和名抄」にみえる賀茂郡井門郷の一部とする説がある(濃飛両国通史)。南北朝期の私歌集「続草庵集」第一巻春の部の歌の詞書に「美濃国西田原という所」とみえ、飛鳥井雅朝の所領で、守護土岐存孝(頼貞)の押領があったことが知られる。「美濃明細記」所収の土岐系図によれば、応永四年(一三九七)死去の頼忠の子頼郷は田原尾張守と称し、「加茂郡田原住」とある。猿啄城(現加茂郡坂祝町)は斎藤道三麾下の田原左衛門の居城とされる(美濃雑事紀)。戦国期の年未詳一二月一一日の斎藤范可宛行状(斎藤文書)によると、桑原右近衛門尉に宛行われた所領のなかに西田原とみえ、同時期と思われるかち田年貢銭目録(同文書)には西田原四〇〇貫とある。
西田原村
にしたわらむら
[現在地名]名張市西田原・さつき台一―二番町
東田原村の西にあたり、上野・名張街道が東西の田原を分ける。名張川に注ぐ小波田川が村中を貫流する低丘陵地で、薦生村・八幡村から通ずる道は伊勢への道でもあった。天喜四年(一〇五六)二月二三日の散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に常田村(後の八幡村か)とともにみえる下津田原村はその四至が「東限阿保条格、南限山、西限山、北限山」とあり、「薦生出作」地である付箋がついていることから判断して、西田原をさすと考えられる。
西田原村
にしたわらむら
[現在地名]秦野市西田原
秦野盆地の北部中央にある。北は五ヵ村入会の西山、南は曾屋村、東は東田原村、西は羽根村に接する。南方を富士道が東西に通る。観応元年(一三五〇)八月二〇日の小山秀親所領譲状(県史三)に「一所 相模国田原村地頭職」とみえる。小田原衆所領役帳には東田原の記載がみられるので、東西の分村は永禄(一五五八―七〇)以前であろう。正保国絵図に村名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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