十日市場
とおかいちば
曾屋村の中央、矢倉沢往還と平塚道の交わる地点を中心に往還沿いに南北に設けられた市場。曾屋村の別称としても用いられた。往還沿いに南から上宿・中宿・下宿、平塚道沿いに市ノ尻などの地名がある。「風土記稿」が天文年中(一五三二―五五)のものとして載せる西田原村香雲寺の修理を沙汰した書状に「十ケ市」とみえる。
延宝八年(一六八〇)二月の十日市場市立申立書(県史六)に「田原村氏直様以来より罷立市御座候」とあり、北条氏直支配の頃には田原村に市があったと推定される。
十日市場
とおかいちば
[現在地名]鈴鹿市神戸二丁目・同六―八丁目
神戸町の西北部を占め、村方ではあるが町内とほとんど変わらない町並である。村域は常盤町の北にまで及んでいる。市に関係ある村名ながら、十日市町との関連などは不明。集落の外れる所に真黒川・六郷川が流れ、一帯を百々川と称している。前者は神戸町の西から神戸城を囲むように流れて玉垣村の用水となり、後者は神戸町内を経て若松村一帯をうるおす用水である。慶安郷帳(明大刑博蔵)に「二百七拾七石九斗五合 十日市場村」とあり、幕府領一九二・一八五石と「御免許神戸町並寺庵方」八五・七二石に分れる。
十日市場
とおかいちば
[現在地名]敷島町中下条
戦国期に現中下条にあった市場。穂坂路が西の竜地宿(現双葉町)から東の甲府へ向かい、金桜神社(現山梨市)への参道が北へ向かう交差点付近、町屋の地名が残る辺りに比定される。「武田家日坏帳」によれば、元亀二年(一五七一)一一月二〇日に逆修供養を行った対馬守と内方の住所は「甲州シホヘノ郡十日市場」とあり、天正五年(一五七七)八月二三日に逆修供養を行った窪寺縫殿丞の住所も「甲州嶋十日市場」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の十日市場の言及
【旭[市]】より
…人口4万0486(1995)。1670年(寛文10)に干拓された干潟八万石の米と九十九里浜の海産物の集散地で,近世から十日市場が栄えて旭町の中心街となった。明治から郡政の中心として地方政治機関が多くなり,第2次世界大戦中に海軍航空基地となった。…
※「十日市場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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