デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「谷口靄山」の解説 谷口靄山 たにぐち-あいざん 1817*-1899 江戸後期-明治時代の画家。文化13年12月生まれ。江戸で谷文晁(ぶんちょう),高久靄厓(たかく-あいがい)に,さらに諸国遊学ののち京都で貫名海屋(ぬきな-かいおく)にまなぶ。明治13年から京都府画学校につとめる。29年の日本南画協会設立に尽力した。明治32年12月30日死去。84歳。越中(富山県)出身。名は貞二,貞。字(あざな)は士幹。別号に藹山,鴨沂水荘。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の谷口靄山の言及 【高久靄厓】より …靄厓没後は白河藩主阿部侯の家老であった川勝隆任の三男隆古(りゆうこ)(1810‐58)が一時その家を継いで高久氏を名乗ったが,のちに復古大和絵派に転じた。また門下に,山水花鳥などを得意とし関西文人画壇で活躍した谷口靄山(あいざん)(1816‐99)らがいる。【佐々木 丞平】。… ※「谷口靄山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by