江戸末期の儒者、書家、画家。阿波(あわ)(徳島県)の人。藩の家老、稲田淡路守(あわじのかみ)の弓術指南であった吉井直幸の二男として生まれ、27歳のとき本姓である貫名氏を名のる。名は苞(しげる)、字(あざな)は子善または君茂。通称を政三郎、のち省吾あるいは泰次郎といい、拾翠(しゅうすい)、海仙、海客、林屋、海屋、海叟(かいそう)、菘翁(すうおう)、菘叟のほか、摘菘翁、方竹山人、須静主人など多くの号を用いた。徳島の西宣行(双渓)に書の手ほどきを受け、絵は藩の絵師で祖父にあたる矢野典博(やののりひろ)(?―1799)に狩野(かのう)派を学んだ。また、伯父を頼って高野山(こうやさん)に登り、山内の図書を学ぶと同時に、空海の真跡に接してその影響を受け、下山後は、大坂の儒者、中井竹山の懐徳堂に入り、その塾頭となった。やがて書画研究のため諸国を遊歴し、ことに長崎では日高鉄翁(1791―1872)から南画を教授され、東海道、中山道を経て、一時江戸にもとどまったが、のち京都に須静塾を開いて儒学を講じた。晩年は、もっぱら書家としての名声を博して京都第一とうたわれた。古碑法帖(ほうじょう)の優品を学んでそこから一歩ぬきんでた品格の高い独自の書風は、市河米庵(いちかわべいあん)、巻菱湖(まきりょうこ)とともに「幕末の三筆」と称され、明治の書壇でも高い評価を受けた。
[松原 茂 2016年6月20日]
江戸時代の儒者,書画家。本姓は吉井,名は直知また苞。字は子善また君茂。林屋,海屋,海叟,海客,菘翁(すうおう)などと号した。阿波徳島藩士の家に生まれる。大坂に出て儒学を中井竹山に学び,のち京都で須静塾を開いた。書名は高く,晋・唐の法帖(ほうじよう)を臨摹(りんも)し,また平安期の名跡を学んで古雅秀麗な書風をつくり,幕末を代表する能書の一人となった。また少年時代から画を好み,はじめ狩野派を学んだが,のちに長崎に遊学し鉄翁について南画を修得。清の画家江稼圃(鉄翁の師)の影響を受けついだ温雅な山水画をよくした。
執筆者:佐々木 丞平
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(河合仁)
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…諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。三蹟【栗原 治夫】。…
… 幕末には明の文芸的な文化として文人趣味が流行し,書画をよくし作詩の教養を重んじる,池大雅,皆川淇園,与謝蕪村,頼山陽などの文人書家が知られる。このころ書のみで一家をなした市河米庵・貫名海屋(ぬきなかいおく)・巻菱湖(まきりようこ)は〈幕末の三筆〉と呼ばれる。この3人は晋・唐の書法を基礎として学問的研究を進めたが,米庵はとくに宋の米芾(べいふつ)に傾倒し,書論等も著し,その著《墨場必携》は揮毫用の範例を示したものとして今日にまで重宝されている。…
※「貫名海屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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