江戸後期の南画家。下野(しもつけ)(栃木県)那須(なす)の人。名は徴、字(あざな)は子遠、通称を秋輔(しゅうほ)という。初めの号は如樵(じょしょう)、のち靄厓山人、疎林外史など。若年のころは郷里の画家につき、1823年(文政6)27歳のとき江戸に出て谷文晁(ぶんちょう)門に入るが、文晁の南北折衷画風に飽き足りず、池大雅(いけのたいが)に私淑し、また元(げん)の呉鎮(ごちん)、明(みん)の沈周(しんしゅう)に傾倒する。とくに大コレクターであった豪商菊池淡雅の庇護(ひご)のもとに、臨模による古典研究に努める。33歳ごろには北陸、奥羽へ、40歳ごろには京坂へ遊歴するが、42歳以後は江戸に居を定めて渡辺崋山(かざん)や椿椿山(つばきちんざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)らと親しく交際。蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)(1839)で崋山が逮捕された際には、その救出活動に尽力した。画(え)は形式的なところもあるが、古典研鑽(けんさん)をうかがわせるまじめな作風をみせ、代表作に『歳寒三友図』などがある。弟子に谷口靄山(あいざん)、のちに復古大和(やまと)絵に転じた高久隆古(りゅうこ)がいる。
[星野 鈴]
江戸後期の文人画家。下野の人。名は徴,字は子遠,通称秋輔。靄厓のほか石窠,如樵,疎林外史と号す。初め絵を郷里の画家と思われる雪耕に学んだといわれるが,その後,池大雅や清の来舶画人伊孚九(いふきゆう)に私淑し,文人画を自ら学んだ。江戸へ出て谷文晁に師事したようであるが,京都へ遊学したり,江戸では渡辺崋山や立原杏所ら関東文人画家との交友の中で,日本における文人画の伝統を守った。靄厓没後は白河藩主阿部侯の家老であった川勝隆任の三男隆古(りゆうこ)(1810-58)が一時その家を継いで高久氏を名乗ったが,のちに復古大和絵派に転じた。また門下に,山水花鳥などを得意とし関西文人画壇で活躍した谷口靄山(あいざん)(1816-99)らがいる。
執筆者:佐々木 丞平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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