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高久靄厓 たかくあいがい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高久靄厓
たかくあいがい

[生]寛政8(1796).那須
[没]天保14(1843).4.8. 江戸
江戸時代後期の南画家。名は徴,字は子遠,別号は如樵 (じょしょう) ,疎林,石巣。初め池大雅伊孚九 (いふきゅう) に私淑,25歳のとき江戸に出て谷文晁に師事,40歳頃に京坂地方へ行き沈石田,梅道人に私淑。山水画を得意としたが,名利のために筆をとらず生活は常に困窮した。晩年は江戸に住み,渡辺崋山立原杏所椿椿山 (ちんざん) らと交遊,蛮社の獄の際は椿山,杏所らと崋山の救援運動に尽力。主要作品『山水四君子図巻』『万年報喜図』『観音図』『虎渓三笑図』『清節高姿図』『四晴読書楽図』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高久靄厓 たかく-あいがい

1796-1843 江戸時代後期の画家。
寛政8年生まれ。谷文晁(ぶんちょう)の門にはいる。池大雅に私淑(ししゅく),元(げん)・明(みん)の画を研究し,独自の文人画をえがく。蛮社の獄で投獄された渡辺崋山(かざん)の救出につとめた。天保(てんぽう)14年4月8日死去。48歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は徴。字(あざな)は子遠。通称は秋輔。別号に如樵,疎林外史など。

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世界大百科事典 第2版の解説

たかくあいがい【高久靄厓】

1796‐1843(寛政8‐天保14)
江戸後期の文人画家。下野の人。名は徴,字は子遠,通称秋輔。靄厓のほか石窠,如樵,疎林外史と号す。初め絵を郷里の画家と思われる雪耕に学んだといわれるが,その後,池大雅や清の来舶画人伊孚九(いふきゆう)に私淑し,文人画を自ら学んだ。江戸へ出て谷文晁に師事したようであるが,京都へ遊学したり,江戸では渡辺崋山や立原杏所ら関東文人画家との交友の中で,日本における文人画の伝統を守った。靄厓没後は白河藩主阿部侯の家老であった川勝隆任の三男隆古(りゆうこ)(1810‐58)が一時その家を継いで高久氏を名乗ったが,のちに復古大和絵派に転じた。

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大辞林 第三版の解説

たかくあいがい【高久靄厓】

1796~1843) 江戸後期の南画家。下野しもつけの人。谷文晁・池大雅に私淑。蛮社の獄では渡辺崋山の救出に尽力。作「歳寒三反図」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高久靄
たかくあいがい
(1796―1843)

江戸後期の南画家。下野(しもつけ)(栃木県)那須(なす)の人。名は徴、字(あざな)は子遠、通称を秋輔(しゅうほ)という。初めの号は如樵(じょしょう)、のち靄山人、疎林外史など。若年のころは郷里の画家につき、1823年(文政6)27歳のとき江戸に出て谷文晁(ぶんちょう)門に入るが、文晁の南北折衷画風に飽き足りず、池大雅(いけのたいが)に私淑し、また元(げん)の呉鎮(ごちん)、明(みん)の沈周(しんしゅう)に傾倒する。とくに大コレクターであった豪商菊池淡雅の庇護(ひご)のもとに、臨模による古典研究に努める。33歳ごろには北陸、奥羽へ、40歳ごろには京坂へ遊歴するが、42歳以後は江戸に居を定めて渡辺崋山(かざん)や椿椿山(つばきちんざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)らと親しく交際。蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)(1839)で崋山が逮捕された際には、その救出活動に尽力した。画(え)は形式的なところもあるが、古典研鑽(けんさん)をうかがわせるまじめな作風をみせ、代表作に『歳寒三友図』などがある。弟子に谷口靄山(あいざん)、のちに復古大和(やまと)絵に転じた高久隆古(りゅうこ)がいる。[星野 鈴]

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