アメリカの映画女優。ヒップのふくらみを強調してセクシーに腰を振って歩く〈モンロー・ウォーク〉で知られ,おそらくはハリウッド史上最大のセックス・シンボルとして記憶されるスターである。
本名はノーマ・ジーン・ベーカーNorma Jean Baker。私生児としてロサンゼルスに生まれる。母グラディス・ベーカーは精神障害の病歴があり,そのため孤児院や里親の家を転々として幼年時代を送った。16歳で結婚してまもなく離婚,写真のモデルとして各種の雑誌の表紙を飾って人気を得,1946年,週給125ドルで20世紀フォックスと1年契約を結び,ノーマ・ジーン・ベーカーからマリリン・モンローという名の女優となった。コロムビアをへて50年にふたたびフォックスと契約し,ジョン・ヒューストン監督の《アスファルト・ジャングル》(1950),ジョゼフ・L.マンキーウィッツ監督の《イヴの総て》(1950)の端役で注目されて〈新進スター〉の一人に数えられ,ヘンリー・ハサウェー監督の《ナイアガラ》(1953)で独特の〈モンロー・ウォーク〉が評判となり,続く《紳士は金髪がお好き》《百万長者と結婚する方法》(ともに1953)によってフォックスの〈マネーメーキング・スター〉になるとともに,ハリウッドの新しい〈セックス・シンボル〉となった。54年には《帰らざる河》《ショウほど素敵な商売はない》,55年には《七年目の浮気》が公開され,またこの間プロ野球のヒーローだったジョー・ディマジオとの結婚・離婚によっても話題をにぎわした。
しかし,モンロー自身はフォックスの企画と型にはまった役柄に反発してニューヨークで〈マリリン・モンロー・プロ〉を設立,〈アクターズ・スチュディオ〉のリー・ストラスバーグのもとで個人的に演技指導を受け,《カラマーゾフの兄弟》のヒロイン,グルシェンカを演ずることを夢に描いた。その後,私生活の乱れと撮影での遅刻常習をめぐって作品ごとにトラブルを繰り返し,62年には,《荒馬と女》(1961)につづいて製作されていた《女房は生きていた》からおろされて,そのしばらくのち,ロサンゼルスの自宅で裸体のまま死体となって発見された。その死因が自殺,事故死,他殺のいずれであったのか,いまなお多くのなぞに包まれている。
モンローについては生前から伝記が書かれ,死後も評伝や秘話があいついで出版された。死後さまざまに〈伝説化〉されているモンローは,いわゆる〈大女優〉ではなかったが,《アスファルト・ジャングル》から《荒馬と女》にいたる11年間に,ハリウッドに2億ドルの収益をもたらした〈大スター〉であった。その実像は,劇作家アーサー・ミラー(モンローのために《荒馬と女》の脚本を書いた)に対する〈尊敬を恋愛と誤認〉し,ユダヤ教に改宗までして結婚したほど〈芸術と知性に対する英雄崇拝〉を抱いている純情な女であったともいわれる。また,〈マリリン・モンロー・プロ〉の《王子と踊る》(1957)の監督と共演を引き受けたローレンス・オリビエは,〈モンローこそは誇大宣伝とセンセーショナリズムの完全な犠牲者である〉と語っている。モンローの死は,同じ62年に死亡したノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーの死よりも大きくアメリカの新聞で扱われ,イタリアでは法王庁の機関紙から共産党の機関紙まで〈肉体女優〉の死の原因を論じ,ソビエトの政府機関紙《イズベスチヤ》は〈ハリウッドがモンローを生み,そのハリウッドがモンローを殺した〉と論じた。
執筆者:柏倉 昌美
アメリカ合衆国の政治家,第5代大統領。在職1817-25年。バージニア州出身。建国期に州や連邦のさまざまな要職を歴任し,1803年には特使としてフランスと交渉に当たり,ルイジアナと呼ばれていた広大な西部地域の購入に成功した。11年から17年までマディソン大統領の下で国務長官を務めた後,リパブリカン党に推され大統領となり2期8年間在任した。1816年までには対抗政党のフェデラリスト党が衰えたため,モンローは2度とも対立候補なしで大統領に当選した。建国期にはバージニアの政治家が大統領になることが多く,〈バージニア王朝〉と呼ばれたが,モンローはこの〈王朝〉最後の大統領である。大統領としての彼は外交面で多くの功績を残し,とくにモンロー主義の表明によって知られている。18年にはルイジアナ地方とイギリス領カナダとの境界を北緯49°の線に定め,19年にはスペインからフロリダ地方を買収し,また太平洋岸地方のスペイン領の北限を条約で定め,合衆国の太平洋岸への進出の布石とした。アメリカ外交の基本原則となったモンロー主義は23年末,議会への教書の中で表明された。当時スペインから独立したラテン・アメリカ諸国にヨーロッパ大陸の神聖同盟諸国が干渉する可能性があり,イギリスから共同で干渉反対を表明しようという呼びかけがあった。モンローは国務長官ジョン・クインジー・アダムズの助言により,アメリカ政府の立場を単独で表明することにし,ヨーロッパ問題への不介入の原則を確認するとともに,ヨーロッパ諸国による西半球での植民地の新たな拡大と,神聖同盟諸国による西半球の国々への干渉とに対して反対を表明した。植民地拡大への反対が言及されたのは,当時ロシア領アラスカの南方への拡大を防ぐための交渉を進めていたからである。彼は在任中リパブリカン党のまとまりの保持に努力したが,対立政党がない時に党の統一を保つことは難しく,24年までには党の統一は崩れた。
執筆者:有賀 貞
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アメリカの映画女優。本名はNorma Jean Baker。精神障害のある母の私生児としてロサンゼルスに生まれ、貧しい少女時代を送り、16歳で結婚。その後離婚し、カレンダーのヌード・モデルなどをするうち、映画に小さい役をつかむようになった。二十世紀フォックスは彼女の主演作『ナイアガラ』(1953)公開に際し、腰を振って歩く「モンロー・ウォーク」を中心にはでな宣伝を展開、世界のセックス・シンボルに祭り上げた。代表作に『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』(1953)、『帰らざる河』(1954)、『七年目の浮気』(1955)、『バス停留所』(1956)、『王子と踊子』(1957)、『お熱いのがお好き』(1959)がある。セックス・アピールばかりでなく、喜劇的な才能も開花し、主題歌も歌った。野球のジョー・ディマジオ、劇作家のアーサー・ミラーとの結婚と離婚、撮影所とのトラブルは無数で、つねに話題をにぎわせた。1962年8月5日、自宅で薬物死しているところを発見され、死亡は前夜と推定されている。死因をめぐって、公式には睡眠薬の飲みすぎによる自殺とされているが、ジョンおよびロバート・ケネディ兄弟と親密な関係にあったことから、謀殺説も根強く伝えられている。
[日野康一]
『亀井俊介著『マリリン・モンロー』(岩波新書)』▽『N・メイラー著、中井勲訳『マリリン』(1981・講談社)』▽『A・サマーズ著、中田耕治訳『女神――マリリン・モンロー』(1987・サンケイ出版)』▽『G・スタイネム著、道下匡子訳『マリリン』(1987・草思社)』
アメリカのカントリー歌手、フラット・マンドリン奏者。アメリカ第5代大統領J・モンローの末裔(まつえい)の家に8人兄弟の末っ子として、ケンタッキー州に生まれた。1920年代から兄チャーリーとマウンテン音楽で活躍。39年にブルーグラス・ボーイズを結成、45年にレスター・フラットLester Flatt(1914―79)やアール・スクラッグスEarl Scruggs(1924― )らを加えて独自のスタイルを完成した。50年ごろからマウンテン音楽はブルーグラスbluegrassと称されるようになり、彼はブルーグラスの父とよばれ敬愛された。1925年から続くカントリー音楽の公開番組「グランド・オール・オープリ」には39年以来晩年まで出演。ヒット曲に『ミュール・スキナー・ブルース』(1939)のほか、『ケンタッキーの青い月』『ケンタッキー・ワルツ』などがある。
[青木 啓]
『ロバート・キャントウェル著、木邨和彦訳『風の歌ブルーグラス――懐かしい南部の響き』(2000・旺史社)』
アメリカ合衆国第5代大統領(在任1817~25)。4月28日、バージニアのウェストモーランドに生まれる。大学在学中に独立革命軍に参加、1780年に退役後、法律を学ぶ。82年にバージニア邦議会議員となり、翌年連合会議への代表に選出される。合衆国憲法の批准には反対した。その後合衆国上院議員(1790~94)、フランスへの全権大使(1794~96)、バージニア州知事、ルイジアナ購入(1803)の特使、国務長官(1811~17)などを経て、1816年、連邦派の勢力衰退のなかで大統領に選出される。党派的対立の鎮静したこの「好感情の時代」に、彼はJ・Q・アダムズ国務長官らの強力な閣僚に支えられ、ナショナリズムの興隆を背景に、フロリダ購入(1819)、モンロー宣言(1823)などを行った。二度目の任期終了後、バージニアに引退し、31年7月4日にニューヨークで死去。
[竹本友子]
アメリカ合衆国、ルイジアナ州北部の工業都市。人口5万3107(2000)。ウォシタ川に面し、天然ガス田の中心地として知られる。化学、製紙、木工、衣服などの工業が発達している。1780年にミロ砦(とりで)が建設され、85年に定住が始まった。集落は綿花の取引地であったが、1860年代の鉄道の開通によって発展し、1900年に市となった。1916年の天然ガス田の発見によって工業都市として成長した。
[菅野峰明]
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1758~1831
アメリカ建国期の政治家。ヴァージニア出身。種々の政治的要職を歴任したのち,2期にわたり大統領(在任1817~25)を務めた。彼の施政はモンロー主義の宣言によって知られる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかしことばそのものは流行語になるとともに風化していき,やがて30年代の〈セクシーな〉女優の大半が安易に〈グラマーガールglamour girl〉の名で呼ばれるに至り(その中には〈ベビー・バンプ〉とも呼ばれたメエ・ウェストもいた),また,38年には,ファッションの世界でも〈ベスト・ドレッサー〉の代名詞として使われるようになり,ブレンダ・フレーザーという黒髪の美女に〈グラマーガール〉のニックネームが付されて話題を呼んだ。戦後はグラマーということばの本来の意味がすっかりすたれ,ハリウッドでは,ときには〈知的なブロンド美女〉としてグレース・ケリーに〈グラマラス〉という形容詞が使われる一方,〈豊満な肉体のブロンド美女〉としてマリリン・モンローに〈グラマー〉の名が冠せられたりした。【柏倉 昌美】【広岡 勉】。…
…1953年冬に,もと《エスクワイア》誌のコピーライターだったヘフナーHugh Hefner(1926‐ )がシカゴで創刊。独特の快楽主義で貫かれた内容,デザインと,毎号選ばれる〈職業臭を感じさせない〉若い女性のカラー・ヌード写真の折込み(創刊号では同年封切りの《ナイアガラ》で名が出ることになるマリリン・モンローを使った)を売りものにした。雑誌と並行して全米の主要都市につくられた〈プレイボーイ・クラブ〉は,豊かな乳房をもち,ウサギの衣装をつけた〈バニー・ガール〉によって関心を呼び,1960年までに同誌の広告収入は200万ドル,予約購読者は100万人に達し,〈プレイボーイ帝国〉が築かれていった。…
※「モンロー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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