豊島村
とよしまむら
[現在地名]豊浜町豊島
大崎下島と西の安芸郡上蒲刈島との間にある島で、属島に尾久比島がある。「芸藩通志」に「広四十町余、袤廿五町、海中の孤島なり」「周廻二里八町余、一村なり」と記される。宝徳三年(一四五一)七月日付の小早川熙位譲状写(小早川家文書)に「伊予国三嶋七嶋之内下嶋之事」と記されるなかに豊島がみえ、大浜村の「国郡志下調書出帳」に「豊島村氏八幡棟札ニ与州越智郡豊嶋室木原八幡、今は安芸国豊田郡云々」とあり、また高橋氏系図并由緒之略記(高橋ミクシ家文書)に「民部伊予国ニ越テ尾部村ニ居シ(中略)漁猟ノタメ同国斎嶋ニ遊ブ、同ク豊嶋ニ豊嶋左衛門尉久政ト云郷士有」とある。
豊島村
としまむら
[現在地名]北区豊島一―八丁目
王子村の北東にあり、西は神谷村・十条村。荒川が北東を流れ、対岸は足立郡宮城村・鹿浜新田(現足立区)。中世の豊島庄・豊島郷の中心部とみられ、江戸時代初期には本郷・豊島本郷と称された。元和三年(一六一七)旗本中川忠宗は「加仁波之郷」と豊島村内で二〇〇石の知行宛行の朱印状を与えられた。寛永二年(一六二五)には旗本阿部正勝は豊島郡の本郷三八石余、同伊東景俊は「戸嶋村」一九石余、同斎藤重成は豊島本郷のうち三四石余、同斎藤吉勝は豊島村一三九石余、同高木政勝は豊島郡本郷三三石余、同服部康信は豊島郷三四石余、同羽田正重は豊島本郷二七石余、同水野信秀・吉田政勝はそれぞれ豊島本郷内三九石余の知行宛行の朱印状を与えられ、同四年旗本大草正重は豊島本郷一八石余の知行宛行の朱印状を与えられている(以上、記録御用所本古文書)。
豊島村
としまむら
[現在地名]中里町豊島
岩木川右岸デルタ微高地に立地し、北は富野村、南は神原村・蒔田村(現金木町)、東は藤枝村(現金木町)、西は岩木川を隔てて船越村(現西津軽郡稲垣村)に接する。
金木新田一八ヵ村の一つで、万治三年(一六六〇)野呂半左衛門の開村とも伝えるが(中里町誌)、新田開発着手が元禄一一年(一六九八)で(平山日記、「徳田家由緒書」金木郷土史)、村の熊野宮創建が元禄一三年とも伝えられ(中里町誌)、開村年代は不明。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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