豊田郡(読み)とよたぐん

日本歴史地名大系 「豊田郡」の解説

豊田郡
とよたぐん

〔中世〕

古代の苅田かりた郡が改名した郡。「伊呂波字類抄」に「刈田郡国用豊田字」とあり、讃岐国内ではすでに鎌倉時代以前から豊田郡とよばれていたらしい。「拾芥抄」には豊田郡となっているので、鎌倉時代中頃には中央でも正式の名称となっていたとみられる。郡内の庄園には山城石清水いわしみず八幡宮観音堂領山本やまもと庄・京都蓮華心れんげしん院領姫江ひめのえ庄・近江日吉社領柞田くにた庄がある。国衙領としては嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)高屋たかや郷が記され、姫江庄も八条院領庄園の一つとしてみえる。「南海通記」によると、讃岐藤原氏の一族豊田郡司柞田大夫貞重が承久の乱に際し上皇方に加わったので、幕府はその所領を没収して三野大領大野大夫綾高光に与えたというが、史料の性質上確かとはいえない。柞田庄では鎌倉中期に給主祝部成顕と成貫との相論が起こった時、地頭弘家が成貫と語らって庄家に乱入して成顕の代官を殺害した。貞和四年(一三四八)頃の同庄地頭は岩田小五郎頼国で、兵庫顕国とともに雑掌から濫妨を訴えられている。

南北朝時代後期、当郡にも讃岐守護細川氏の支配が伸びた。細川頼之の弟で讃岐守護代であった細川頼有が、嘉慶元年(一三八七)一一月二六日に子松法師(頼長)に所領を譲った譲状(細川家文書)に、山本一分地頭職・柞田地頭職(岩田惣領分)・姫江本庄領職(領家職か)がある。頼有は讃岐在国中は柞田庄を本拠としたらしく、明徳元年(一三九〇)三月一六日の頼之の書状(同文書)では頼有のことを柞田殿とよんでいる。応永七年(一四〇〇)三月二三日の足利義満の御教書(同文書)を受けた八月二四日の畠山徳元奉書(同文書)では、姫江本庄領家職はみえず、柞田地頭職一分と山本庄地頭職一分が頼長に安堵されているが、この両庄は頼長の跡を継いだ和泉半国守護細川氏によって伝領され、その支配下に入ったものと思われる。また姫江庄も、たとえば寛正六年(一四六五)一二月に讃岐守護細川勝元が庄内の地蔵院に祈願所として禁制を下すなどしているので、実質的に細川氏の支配が及んでいたとみてよいであろう。享徳元年(一四五二)の琴引八幡宮放生会祭式配役記(観音寺文書)に記録者として名を記している源伊予守信之は、細川氏の一族で柞田庄の代官であったものと思われる。現観音寺かんおんじ室本むろもと町の江甫つくも山に城跡が残る九十九山つくもやま城は「西讃府志」に細川伊予守氏政の居城で、天正年間(一五七三―九二)に長宗我部元親の攻撃を受けて滅びたとあるが、この氏政は信之の後裔であろう。


豊田郡
とよたぐん

面積:三三〇・三六平方キロ
本郷ほんごう町・瀬戸田せとだ町・東野ひがしの町・木江きのえ町・大崎おおさき町・ゆたか町・豊浜とよはま町・安芸津あきつ町・安浦やすうら町・川尻かわじり

県南部中央に位置し、瀬戸内海沿岸部の安芸津町・安浦町・川尻町、島嶼部の大崎町・東野町・木江町・豊町・豊浜町・瀬戸田町、内陸部の本郷町からなる。北は賀茂郡・東広島市、東は三原市・因島市に接し、西の呉市との境には県南部で最も高い野呂のろ(八三九・四メートル)がある。

豊田郡は古くは沙田ますた郡といい、郡域はほぼ現賀茂郡大和だいわ町・河内こうち町・豊栄とよさか町・福富ふくとみ町一帯にあたり、「文徳実録」仁寿三年(八五三)一〇月一六日条に「安芸国佐伯・山県・沙田三郡復今年、恤窮民也」とみえ、「延喜式」(民部省)にも沙田郡とあるが、「和名抄(刊本郡部)に「沙田万須多、今沙作豊、止与太」、「色葉字類抄」に「沙田今者豊田字用」とあるので、一〇世紀初頭に豊田郡に改称されたことがわかる。沙田郡の南、沼田ぬた川中・下流域の湿地帯には沼田郡(現三原市・竹原市・豊田郡本郷町)があったが、平安時代の後半に、豊田郡(沙田郡)と沼田郡の大半は沼田庄に包括され、沼田の郡名が消えて沼田庄の荘域が豊田郡と称されるようになり、これが近代まで続いた。島嶼部と本郷町はこれに属する。昭和三一年(一九五六)郡の編成替えにより、豊田郡の北部(平安時代までの豊田郡域)を賀茂郡に分離したのに対し、賀茂郡に属していた沿岸部(現安芸津町・安浦町・川尻町)が豊田郡に編入された。

〔原始・古代〕

沼田川流域・島嶼部には縄文・弥生時代の遺跡が各地にみられる。沼田川流域では早くから水稲耕作が行われ、遺跡はいずれも丘陵や河川沿いの微高地に立地するが、本郷町本郷のとうおか遺跡のように弥生時代の遺跡もみられ、土器のほかに石包丁などの石器も出土している。古墳時代には生産力の増大とともに権力の伸張もみられ、沼田川中・下流域を中心に、いわゆる沼田文化圏が形成され、島嶼部にも古墳の築造がみられた。古墳時代後期の古墳として、県内最大規模の横穴式石室を有する本郷町の梅木平ばいきひら古墳、終末期古墳としては、二つの石室をもつ御年代みとしろ古墳(本郷町)があり、畿内勢力の影響があったとされている。梅木平古墳の東には、白鳳期の横見よこみ廃寺跡、さらにその東に沼田氏の高木山たかぎやま(沼田)城跡があり、沼田川の本・支流域には条里制の遺構が認められる。


豊田郡
とよだぐん

平安中期から明治二九年(一八九六)まで存在した遠江国の郡。古代と近世の郡域は、磐田郡との関係もあって大きく異なる。

〔古代〕

平安中期以降の古代の郡域は現在の磐田市から豊田町付近にあたる。「延喜式」には郡名はみえない。「遠江国風土記伝」は磐田郡を分割し「豊国」郷(和名抄)の名を改めて「豊田」郡としたとするが、「静岡県史」は一〇世紀半ば頃に磐田郡西半の天竜川流域と磐田原台地南端部とが分割されて成立したとする。「大日本地名辞書」などは磐田郡を改称したものとする。康平六年(一〇六三)五月二〇日の妙香院庄園目録(華頂要略)には、応和元年(九六一)藤原師輔から子の僧尋禅に遺贈された庄園として「遠江国豊田栗栖」がみえ、「在豊田郡」の注が付されている。「和名抄」東急本国郡部には「遠江国郡管十三」の傍注として「国(府)在豊田郡」とあり、一三郡の内訳部分にも豊田がみえ、「土与太」の訓とともに国府所在地と記される。しかしここに列挙されている郡名は豊田・磐田両郡含めて一四郡で、同じ東急本の郷名部には豊田郡の項目はない。こうした点からみて、東急本にみえる豊田郡は「和名抄」本文成立後に追加挿入されたものと考えられる(大日本地名辞書)。名博本では郡郷名記載のなかに「長上」「豊田ー」「長下」「磐田府イ」の順で郡が並び、豊田郡の下に蟾沼ひきぬま壱志いちしの二つの郷名が書かれているが、二郷は他の本では長上ながのかみ郡所属で、誤写と考えるべきであろう。なお国府については「色葉字類抄」に「豊田国付」の表記が「磐田」と並立してみえるが、「伊呂波字類抄」国郡部・「拾芥抄」は磐田郡を国府所在地としている。

嘉応三年(一一七一)二月には松尾まつお(現京都市西京区)領「遠江国池田庄」が成立し、その立券状(松尾大社文書)には「在管豊田郡内」とある。ただしその直前に作成されたと推定される池田いけだ庄の雑事免除などを指示した官宣旨案(民経記寛喜三年一〇月巻紙背文書)には同庄の管郡が磐田郡と記されている。


豊田郡
とよたぐん

豊浦郡の中に形成された私郡で、律令政治の衰えた平安中期以降にその名が現れる。私郡は国が正式に認めたものではなく、国司の下で徴税の責任を負った郡司や地方豪族が、その責任範囲を私称したもので、豊浦郡の場合は豊東ぶんとう豊西ぶんさい・豊田の三郡が知られる。

豊田郡の郡域は豊浦郡の北部、現豊北ほうほく町・豊田町および美祢みね豊田前とよたまえ町を含む地域といわれ、木屋こや川がつくる豊田盆地の南東山中のいちに居館を構えた豪族豊田氏が勢力を張った。豊田氏は藤原氏の出といわれ、初代輔長は平安中期の人周防権守藤原長房の子とされ(豊田氏系図)、豊田郡の領主としてこの地に下向したといわれる。七代種弘は豊田郡大領に補せられており、仁安二年(一一六七)正月二一日付の太政官符案(陽明文庫蔵「兵範記」裏文書)に「管豊田郡大領正(ママ)位藤原朝臣種弘」とある。豊田郡の初見ともされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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