日本歴史地名大系 「豊田郡」の解説
豊田郡
とよたぐん
- 香川県:讃岐国
- 豊田郡
〔中世〕
古代の
南北朝時代後期、当郡にも讃岐守護細川氏の支配が伸びた。細川頼之の弟で讃岐守護代であった細川頼有が、嘉慶元年(一三八七)一一月二六日に子松法師(頼長)に所領を譲った譲状(細川家文書)に、山本一分地頭職・柞田地頭職(岩田惣領分)・姫江本庄領職(領家職か)がある。頼有は讃岐在国中は柞田庄を本拠としたらしく、明徳元年(一三九〇)三月一六日の頼之の書状(同文書)では頼有のことを柞田殿とよんでいる。応永七年(一四〇〇)三月二三日の足利義満の御教書(同文書)を受けた八月二四日の畠山徳元奉書(同文書)では、姫江本庄領家職はみえず、柞田地頭職一分と山本庄地頭職一分が頼長に安堵されているが、この両庄は頼長の跡を継いだ和泉半国守護細川氏によって伝領され、その支配下に入ったものと思われる。また姫江庄も、たとえば寛正六年(一四六五)一二月に讃岐守護細川勝元が庄内の地蔵院に祈願所として禁制を下すなどしているので、実質的に細川氏の支配が及んでいたとみてよいであろう。享徳元年(一四五二)の琴引八幡宮放生会祭式配役記(観音寺文書)に記録者として名を記している源伊予守信之は、細川氏の一族で柞田庄の代官であったものと思われる。現
豊田郡
とよたぐん
県南部中央に位置し、瀬戸内海沿岸部の安芸津町・安浦町・川尻町、島嶼部の大崎町・東野町・木江町・豊町・豊浜町・瀬戸田町、内陸部の本郷町からなる。北は賀茂郡・東広島市、東は三原市・因島市に接し、西の呉市との境には県南部で最も高い
豊田郡は古くは
〔原始・古代〕
沼田川流域・島嶼部には縄文・弥生時代の遺跡が各地にみられる。沼田川流域では早くから水稲耕作が行われ、遺跡はいずれも丘陵や河川沿いの微高地に立地するが、本郷町本郷の
豊田郡
とよだぐん
- 静岡県:遠江国
- 豊田郡
平安中期から明治二九年(一八九六)まで存在した遠江国の郡。古代と近世の郡域は、磐田郡との関係もあって大きく異なる。
〔古代〕
平安中期以降の古代の郡域は現在の磐田市から豊田町付近にあたる。「延喜式」には郡名はみえない。「遠江国風土記伝」は磐田郡を分割し「豊国」郷(和名抄)の名を改めて「豊田」郡としたとするが、「静岡県史」は一〇世紀半ば頃に磐田郡西半の天竜川流域と磐田原台地南端部とが分割されて成立したとする。「大日本地名辞書」などは磐田郡を改称したものとする。康平六年(一〇六三)五月二〇日の妙香院庄園目録(華頂要略)には、応和元年(九六一)に藤原師輔から子の僧尋禅に遺贈された庄園として「遠江国豊田栗栖」がみえ、「在豊田郡」の注が付されている。「和名抄」東急本国郡部には「遠江国郡管十三」の傍注として「国
嘉応三年(一一七一)二月には
豊田郡
とよたぐん
豊浦郡の中に形成された私郡で、律令政治の衰えた平安中期以降にその名が現れる。私郡は国が正式に認めたものではなく、国司の下で徴税の責任を負った郡司や地方豪族が、その責任範囲を私称したもので、豊浦郡の場合は
豊田郡の郡域は豊浦郡の北部、現
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報