豊永郷(読み)とよながごう

日本歴史地名大系 「豊永郷」の解説

豊永郷
とよながごう

近世、現大豊町のうち北西部を除く大部分の地域を豊永郷と称した。「土佐州郡志」は「豊永郷小村三十八 東限阿州、西限本山、南限穂岐山韮生村、北限阿州、東西八里余南北五里許、戸凡千三百、其土黒赤、相伝、昔小笠原越後云者領豊永郷、後属秦元親、更氏豊永」と記す。

この郷域は天正一六年(一五八八)の豊永地検帳にみえる「土佐国長岡郡殖田郷俊山堺之村」に比定される。同地検帳では四四の名・村からなり、検地面積二二〇町八反二七代四歩一尺、うち田分八四町五反三三代二歩三尺、畠分六一町一反四三代五歩三尺、屋敷八二二で七五町一反二歩五尺、寺四、坊一、堂床二九がみられる。吉野川を挟んで下土居しものどい村と川渡かわど村には渡場があったが(元親記)下土居村の小字「ワタシヤシキ」には長宗我部氏家臣島崎平兵衛が居住し、監視の任に当たっていた。「堺之村」を通る大道の分岐点でもあった下土居村には戦国期、国侍小笠原越後の別館があり(土佐州郡志)背後山頂には南北朝期の築城といわれる豊永城跡、その西、南小川みなみこがわを挟んで室町期といわれる嵯峨山さがやま城跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android