豊浦庄(読み)とようらのしよう

日本歴史地名大系 「豊浦庄」の解説

豊浦庄
とようらのしよう

安土町中央部、上豊浦かみとようら・下豊浦を遺称地とし、一帯に比定される。安土山・きぬがさ山・竜石りゆうせき山に囲まれた平野部にあたり、「輿地志略」は佐々木庄の北として、近世高木たかぎ村・豊浦村・安土村・石寺いしでら村の諸村が庄域と記す。鎌倉時代の写と考えられる天平感宝元年(七四九)閏五月二〇日の聖武天皇施入勅願文(中村文書)に聖武天皇が奈良薬師寺に勅施入した「水田一佰町近江国蒲生郡」がみえる。この田地が当庄の前身と考えられ、同所の四至は「東限神崎生堺并佐々木山長峯、南限鳥坂長峯、西限五条畔、北限大渭」であった。佐々木山長峯は現在の繖山、鳥坂長峯は竜石山鞍部の鳥打とりうち峠や南腰みなみこし越付近、五条畔は古代蒲生郡条里の五条・六条境、現在の沙沙貴ささき神社から西性さいしよう寺へ向かう道あたりと推定され(蒲生郡志)、大渭は西の湖のこと。承暦四年(一〇八〇)白河天皇の皇女郁芳門院子内親王)が斎宮として伊勢に発向するにあたって各地の庄園所領に伊勢斎宮群行雑事が賦課された際、薬師寺所司等は当庄の雑事免除を申請している(「水左記」同年八月二七日条・閏八月六日条)。「猪隈関白記」建仁元年(一二〇一)八月一四日条によれば「豊浦庄内海」には、京都下鴨社ならびに坂本日吉社の神供漁場があり、この内海漁釣のことに関して両社が争論を起こしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報