改訂新版 世界大百科事典 「六角定頼」の意味・わかりやすい解説
六角定頼 (ろっかくさだより)
生没年:1495-1552(明応4-天文21)
南近江の戦国大名。六角高頼の次男。はじめ京の相国寺に入り禅僧となったが,1516年(永正13)伊庭氏の乱で近江に帰り,兄氏綱に代わりこれを討ち,18年家督をついだ。定頼は足利義晴を将軍就任以来補佐して幾度も上洛し,27年(大永7)には武佐に8ヵ月,32年(天文1)から桑実寺に3ヵ年など,将軍を居城観音寺城(現滋賀県近江八幡市,旧安土町)近くに迎えており,幕府の政局に関与した。46年には坂本で,足利義藤(義輝)の元服に管領代として加冠役をつとめ,従四位下となった。また1532年山科本願寺焼討ち,36年法華一揆退治,同年美濃斎藤氏へ援軍,40年伊勢長野氏攻撃などの軍事行動をとった。一方1522年蒲生氏の内紛をおさえ,浅井亮政には25年小谷(おだに)城,31年(享禄4)箕浦,38年小谷城で勝つなど領国を平定し,また奉行人も整備して家臣団を統制した。定頼の裁決は後代においても不変とされ,戦国期六角氏の盛期を作った。
執筆者:宮島 敬一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報