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六角定頼 ろっかくさだより

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

六角定頼
ろっかくさだより

[生]明応4(1495)
[没]天文21(1552).1.2. 近江
室町時代末期の武将。高頼の子。通称は四郎。号は江雲寺。永正1 (1504) 年相国寺慈照院に入ったが,還俗して家督を継いだ。のち近江守護として将軍足利義稙 (よしたね) ,義晴のために尽力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

六角定頼 ろっかく-さだより

1495-1552 戦国時代の武将。
明応4年生まれ。六角高頼の次男。南近江(おうみ)の守護大名。兄氏綱の死去で還俗(げんぞく)し,家をつぐ。足利義晴の将軍擁立にかかわり,信任をえて管領(かんれい)代となり,義晴の子足利義輝元服親をつとめた。天文(てんぶん)21年1月2日死去。58歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

六角定頼

没年:天文21.1.2(1552.1.27)
生年:明応4(1495)
戦国時代の大名。近江国(滋賀県)守護六角高頼の第2子。幼少より相国寺の僧として育ち光室承亀を名乗ったが,兄氏綱が永正15(1518)年に死去したため還俗して六角家を継いだ。将軍足利義晴の信頼厚く,義晴は京都から避難した3年間を定頼の居城観音寺城下の桑実寺で過ごし,天文3(1534)年には,義晴の婚礼が同寺で行われている。また定頼は,義晴の子義輝の元服式に管領代として加冠役を務めるなど,将軍家,朝廷からの信任も厚かった。一方戦乱も熾烈を極め,特に近江では江北の戦国大名浅井氏と衝突を繰り返した。なお領国経営については,城下に楽市を設けるなど,治世の優れた一面もうかがえる。<参考文献>『近江蒲生郡志』2巻

(宇野日出生)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ろっかくさだより【六角定頼】

1495‐1552(明応4‐天文21)
南近江の戦国大名。六角高頼の次男。はじめ京の相国寺に入り禅僧となったが,1516年(永正13)伊庭氏の乱で近江に帰り,兄氏綱に代わりこれを討ち,18年家督をついだ。定頼は足利義晴を将軍就任以来補佐して幾度も上洛し,また27年(大永7)には武佐に8ヵ月,32年(天文1)から桑実寺に3ヵ年など,将軍を居城観音寺城(現,安土町)近くに迎えており,幕府の政局に関与した。46年には坂本で,足利義藤(義輝)の元服に管領代として加冠役をつとめ,従四位下となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

六角定頼
ろっかくさだより
(1495―1552)

南近江(みなみおうみ)の戦国大名。高頼(たかより)の次男。初め京都相国(しょうこく)寺に入り、光室承亀(こうしつじょうき)と称したが、1516年(永正13)守護代伊庭(いば)貞説の乱により近江に帰り、1518年兄氏綱(うじつな)の死により家督を継ぎ、定頼と名のった。当初、将軍足利義稙(あしかがよしたね)の近侍として行動していたが、1521年(大永1)から細川高国(たかくに)とともに前将軍義澄(よしずみ)の子義晴(よしはる)を援助して再三上洛(じょうらく)した。1532年(天文1)から3年間、居城観音寺(かんのんじ)城(滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市)近くの桑実(くわのみ)寺に義晴を迎えた。この前後、本願寺焼討ち(1532)、美濃(みの)斎藤利綱(としつな)への援軍(1536)、伊勢(いせ)長野氏攻撃(1540)を行った。1546年には義晴の子義輝(よしてる)の元服加冠役となり、管領(かんれい)代・従(じゅ)四位下となった。また北近江に浅井氏が勢力を伸ばすなか、これを箕浦(みのうら)や小谷(おだに)城に攻め、一方、蒲生氏の内訌(ないこう)に関与するなど家臣団統制を進め、戦国期の六角氏の盛期を築いた。天文(てんぶん)21年正月4日没。法号江雲寺光室承亀。[宮島敬一]

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世界大百科事典内の六角定頼の言及

【管領代】より

…戦国期には実質上管領家は細川氏のみであったため,管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず,そのとき管領に故障があった場合,管領代が指定されて管領を代行した。史料的には1546年(天文15)足利義輝が近江坂本で将軍に就位したとき,近江守護六角定頼がこの職に補任されたのが唯一の例。なお応仁の乱後,細川氏が事実上幕府を壟断するようになって,同氏の内衆が幕府奉行人と並んで重要政務に奉書を発給するようになるが,これら細川氏奉行人は幕府から〈右京兆代〉(京兆は細川氏の極官である右京大夫の官途を指す)と呼ばれたため,細川氏奉行人を管領代,その発給文書を〈管領代奉書〉と呼ぶ研究者もある。…

※「六角定頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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