朝日日本歴史人物事典 「豊竹肥前掾」の解説
豊竹肥前掾
生年:宝永2(1705)
江戸中期,義太夫節の太夫。通称新右衛門。大坂松屋町の商家の出身。幼少のころから音曲に親しみ,豊竹上野少掾(越前少掾)のもとへ入門,初名豊竹新太夫。豊竹座の中堅太夫として活躍しはじめた享保18(1733)年,退座して江戸に下り,外記座に出演。元文3(1738)年には豊竹肥前掾藤原清正を受領し,江戸堺町(中央区日本橋芳町,人形町)に肥前座を開場する。肥前掾は太夫,興行主,劇場主を兼務し,江戸における義太夫節流行の基礎を作った。延享2(1745)年,無届け興行の科で失脚するが間もなく再興。晩年,門弟の伊勢太夫に肥前掾を譲り,杉山丹後掾を名乗ろうとするがうまく行かず,一時宮内とも名乗るが,もとの肥前掾に戻った。俳諧もたしなみ,俳名は蛙井。<参考文献>祐田善雄『浄瑠璃史論考』
(桜井弘)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報