江戸中期の江戸の講釈師。《只誠埃録(しせいあいろく)》によると,本姓は中井,伊予の人,出家したものの還俗,中井文右衛門,さらには文耕と名のり易で生計を立てたとある。自著によると,幕臣を致仕,俳諧を白兎園宗瑞に学び,子供は寛永寺に奉公などとあるが《只誠埃録》と合致しない。著作には無署名,別号,仮託のものなどがあり,確定に困難な場合もあるが,《世間御旗本容気(かたぎ)》(1754),《近世江都著聞集》(1757),《当世諸家百人一首》(1758)など十数部が知られている。1758年(宝暦8)9月16日,日本橋榑正町文蔵宅で,当時審理中の〈金森騒動〉を講じていたところを逮捕され,12月29日(25日とも)小塚原で獄門に処せられた。
執筆者:延広 真治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期の講釈師。伝未詳。関根只誠(しせい)編の『只誠埃録(あいろく)』によると、伊予(愛媛県)の人、中井左馬次(さまじ)、一度出家ののち還俗(げんぞく)して文右衛門(ぶんえもん)、さらに馬場文耕と改め、当初易で生計をたてたというが、文耕自身の書き残したものからは裏づけえない。下級の幕臣であったが浪人して講釈師となり、俳諧(はいかい)は白兎園宗瑞(はくとえんそうずい)門、2人の子供を寛永寺(かんえいじ)に奉公させていたというのが実像であろうか。武家に出入りし家政を批判する一方、江戸・采女ヶ原(うねめがはら)などで講じ、毒舌家で、世話物の分野を開拓した。1758年(宝暦8)9月16日、美濃(みの)郡上(ぐじょう)の百姓一揆(いっき)を講じたうえ、小冊子『平仮名森の雫(しずく)』をも頒布したため逮捕され、12月25日小塚原(こづかっぱら)で獄門。『当世武野俗談(とうせいぶやぞくだん)』『近世江都著聞集』『当世諸家百人一首』など十数部の著述があるが、8代将軍吉宗(よしむね)への尊崇の念が甚だしい。
[延広真治]
(宇田敏彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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