日本歴史地名大系 「賀津佐村」の解説 賀津佐村かづさむら 長崎県:南高来郡加津佐町賀津佐村高来(たかく)郡にあった中世の郷村。正安二年(一三〇〇)閏七月一三日の沙弥時阿請文(大川文書)に「加津佐」とみえ、大河永仏代子息延幸が伊福(いふく)村(現瑞穂町)内の横田尾(よこたお)の屋敷について加津佐地頭代を訴え、時阿はこの訴えを同地頭代に伝え、請文を取次いでいる。これより先、深江(ふかえ)村(現深江町)の所務をめぐる惣地頭越中長員(行心)と安富頼泰の相論では深江村と一体の関係にあった加津佐も訴訟に巻込まれ、永仁五年(一二九七)鎮西探題は安富氏の主張を受入れて「上総」村を別納の地としている(同年九月七日「鎮西探題下知状」深江文書)。しかしこの争いはその後も続き、元応元年(一三一九)加津佐村については行心子息の景長と内島光長が争ったものの、光長が勝訴しているので、景長の訴えは棄却されている(同年九月六日「鎮西下知状」同文書)。貞和二年(一三四六)には「高来東郷加津佐村半分」が料所として開田遠員に預け置かれている(同年六月一二日「高師直奉書」同文書)。しかし正平一三年(一三五八)有馬直澄が重代相伝の私領とする高来郡賀津佐村内の鉢窪(はちのくぼ)名・部窪名にある伽藍敷地や屋敷・山野を肥後広福(こうふく)寺(現熊本県玉名市)の開基である大智に寄進し、また住持職以下の大小の公私検断などについて、地頭の口出しを停止させることとしており(同年六月二三日「有馬直澄寄進状案」広福寺文書)、すでに有馬氏の存在が知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by