深江村
ふかえむら
[現在地名]深江町古江名・田中名・馬場名・諏訪名・大野木場名
現深江町域を村域とする。南東部は海に臨む。古江名に山ノ寺遺跡がある。中世より深江浦などとみえ、安富氏が勢力を有していた。諏訪名の上市場にある法乗寺は、正応五年(一二九二)八月一六日の肥前国河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)に記される「宝乗院」のあった地と考えられ、寺領五八町をもつ寺院であった。同寺は正平一三年(一三五八)には安富泰重から深江村内の田地の寄進を受けているが、「温泉山光明真言道場宝乗院」とあり(同年二月日「安富泰重寄進状案」深江文書)、四面宮(現温泉神社)やその別当の温泉山大乗院満明寺(現小浜町)などと同じく雲仙岳を中心とする山岳信仰に関連する道場であった。諏訪名の諏訪神社は正長元年(一四二八)深江に拠点を置いていた安富泰清が勧請したと伝える。馬場名の古城の熊野神社は永享八年(一四三六)、田中名板首の田中神社は弘治二年(一五五六)の創建という。ほかに西光寺・普門寺・慈恩寺などの寺院も当地に建立されており、安富氏がこのように寺社を庇護していたため、同氏が深江を去る天正一二年(一五八四)までキリシタンの数は少なかったとされるが、地内の寺社は信徒により焼払われたと伝える。文禄五年(一五九六)深江村の者が伊勢参宮に赴いている(「御参宮人帳」橋村家文書)。
バテレン追放令後、一五八八年(天正一六年)布教が再開され、フカエでは新たに五〇〇人がキリシタンになっている(フロイス「日本史」)。慶長一六年(一六一一)銘を最古とするキリシタン墓碑群(九基)がある。日本イエズス会管区長マテウス・デ・コウロスは、江戸幕府の同一七年の禁教令のあとも布教を継続していることを証明するために徴収した元和三年(一六一七)のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付に「深江村」の印藤甚平しめあん・馬場半右衛門はるとろめ・城戸九兵衛はう路など、キリシタンの代表者とみられる五名が署名している。
深江村
ふかえむら
[現在地名]二丈町深江
現二丈町域のほぼ中央に位置し、西は玄界灘に面する。南は淀川村・一貴山村、西は佐波村、北は片山村。片山村との境を一貴山川(深江川)が流れて海に入り、海辺は怡土の浜と称された。唐津街道の宿場で、前原村から西方一里三四町(続風土記)。深江町・淀川村と交錯して街区をなした。「延喜式」兵部省にみえる筑前国深江駅の遺称地とされ、中世は深江庄が成立した。もとは下深江と称したともいう(地理全誌)。天正二〇年(一五九二)ないしは文禄二年(一五九三)の豊臣秀吉上洛諸泊次第写(小早川文書/大日本古文書一一―二)に「ふかへ」とみえ、名護屋城から京都へ戻る秀吉の船はまず当地に停泊し、次いで名島(現福岡市東区)に向かっている。慶長四年(一五九九)の怡土郡石高帳(二丈町誌)によれば深江村の高三千九九四石余で、深江町・淀川村・一貴山村・上深江村も含むとされる。正保郷帳では田三千一二九石余・畠三四〇石余。元禄国絵図では高二千一六五石余。元禄一四年(一七〇一)の万書物写(二丈町誌)によると、元和二年(一六一六)の肥前唐津藩主寺沢広高による検地高は村分九一九石余(四五町九反余)、道元分一〇〇石(五町五反)、新田高八七石余(四町六反余)。家数七四(うち庄屋一・名頭一・本百姓二九・軒葺一・医師一・社人一)・人数四五一。
深江村
ふかえむら
[現在地名]東成区深江北一―三丁目・深江南一―三丁目
左専道村(現城東区)の南にあり、東は河内国若江郡高井田村(現東大阪市)、南は同渋川郡東足代村(現同上)。東端を守口町(現守口市)方面への道が、南端を奈良街道(暗峠越)が通り、村の南東隅で両道が交差。この交差地付近に新家(通称深江新家)と称する小集落があり、「摂津志」には「新家」の村名がみえ、「深江及河州渋川郡足代両村出戸」と注記。宝暦八年(一七五八)の深江村検地帳(川田家文書)には、延宝検地分として新家の一八戸がみえるから、この頃までに集落の形成が進んでいたことがわかる。
付近は「万葉集」巻三に歌われる「笠縫の島」の地で、「延喜式」(内匠寮)に伊勢斎宮の菅蓋の材料を供給したとある摂津国笠縫氏の居住地といわれ、現在、深江稲荷神社境内が摂津笠縫邑跡として府の史跡に指定されている。「古事記伝」に「此地など今は島に非れども、古は凡て此郡内など、川々多く流れ合て広く沼にて海の如く、舟の往来て、まことに島にてありしなり」とされるように、古代の深江一帯は玉造江の一部をなす沼沢地が広がるなかに、居住可能な高所があるという地勢であったのであろう。
深江村
ふかえむら
[現在地名]芦辺町深江
諸吉村の南に位置し、東部は内海に臨む。南部を幡鉾川が東流する。中央部の深江鶴亀触に原の辻遺跡がある。その南の深江栄触の寺山にある大塚山古墳は竪穴系横口式石室をもち、五世紀後半の築造とされる。地内の止乃美夜に鎮座する「とのみや」(姫大明神・五所姫大明神、現与神社)を「延喜式」神名帳に記される石田郡一二座の一つ「与神社」に比定する説がある。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では西間の老松天神(現石田町)の社領九四町のうちとして深江村とみえ、同年とされる壱岐国七社神領敷地定書(同書)では呼子氏の領知とする。「海東諸国紀」では壱岐一三里の一つとして「侯加伊一百三十余戸」とある。
深江村
ふかえむら
[現在地名]東灘区深江本町一―四丁目・深江南町一―五丁目・深江北町一―五丁目・本庄町一―三丁目
森村の南、大阪湾に面する芦屋川河口沖積地の西岸寄りに位置する。「細川両家記」には「灘深井」とみえ、永正八年(一五一一)七月細川尚春は河原林正頼(政頼)の籠る鷹尾城(現芦屋市)を攻略するため当地に陣取ったという。江戸時代の領主の変遷は石屋村と同じ。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に村名がみえ、高四七〇石。正保郷帳でも同高、ほかに新田高一八石余。寛文四年(一六六四)の高五一七石余(寛文九年頃の「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)。
深江村
ふかえむら
[現在地名]大柿町深江
大原村の西にあり、能美島の西南端を占める細長い村。東はおおむね山地となり、西および南は瀬戸内海に面する。もと深い入江であったことによる村名という(佐伯郡誌)。入江に面した平地に集落が展開する。西方海上に島戸瀬戸を隔てて沖野島、その南西に我島・長島があり、いずれも当村に属する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では「のふミ島ひかし」のうちに含まれる。寛永一五年(一六三八)の地詰によって村が成立。
深江村
ふかえむら
[現在地名]砺波市深江・表町・本町・広上町
神島村の南東にあり、南東部は鷹栖出村を間に挟んで村域が二分されている。東方の一部は杉木新町に連なる。元和五年(一六一九)の家高新帳には深井村とあり、若林の内で役家数四。正保郷帳では高三〇〇石余、田方一九町四反余・畑方六反余。慶安二年(一六四九)杉木新町の町立てにあたり当村内一〇石の地が同町居屋敷地に当てられ(「杉木新町町立願書」杉木新町文書)、同年から同四年の間に替地七石余が開かれた(明暦元年「杉木新町居屋敷高并替地開高帳」高畠家文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印でも深井村で草高三八五石、ほかに同六年の新田高九石があり、免はともに四ツ。
深江村
ふかえむら
[現在地名]羽咋市深江町・次場町・若草町
羽咋村の東、石野町村の北、邑知潟南の低平地に立地。「能登志徴」によると当村と吉崎村は羽咋村の内であったが、元和四年(一六一八)村立てされたという。深江八幡神社の社伝によれば、文永年間(一二六四―七五)開拓、文明八年(一四七六)羽咋神社神主宮谷家が当地に移転、その際同社摂社の八幡社を勧請。このとき羽咋の百姓一六人も従って移住してきたという。正保郷帳に村名がみえ、高一千二三二石余、田方七八町六反余・畑方三町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一千五五九石、免四ツ六歩、小物成は山役三六二匁・苦竹役四匁、鳥役一二匁(出来)、猟船櫂役五匁、網役一二匁(出来)、草野役五三匁(三箇国高物成帳)。
深江村
ふかえむら
[現在地名]臼杵市深江 深江・柿ノ浦・久保浦
臼杵湾に北面し、西・南・東は坪江村に囲まれる。江戸時代初期には風成村に含まれたとも考えられる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳に村名がみえ、高二八石余(田方二二石余・畑方六石余)、うち本高二七石余・出来高一石余、日損所、「柴山少有」とある。正保郷帳では臼杵庄に属し、田方一九石余・畑方七石余。江戸時代中期と推定される臼杵領石高帳では本高三〇石余、田方一町余・畑方一町余、免四ツ。大泊組に所属(万用集)。寛文七年(一六六七)の巡見帳によると家数一三で、当村の湊は北西風に適さなかった(臼杵小鑑)。
深江村
ふかえむら
[現在地名]上下町深江
上下村の南に位置し、東は中津藩領井永村、南は国留村・矢野村に接する。広島藩領で家老三原浅野家知行所。元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村名がみえ、村高二八六石余は幕末まで変化がない。
「芸藩通志」は村の様子を広さ一〇町・長さ一八町で、「西南は山林相連り、東北は平地にて隣村に接く、本郷川北界を通じ、一川国留村より来り矢野村に出る」と記す。耕地四一町三反三畝一七歩。
深江村
ふかえむら
[現在地名]国東町深江
堅来村の北方に位置し、国東道が通る。永享二年(一四三〇)一二月九日の大友持直安堵状案(富来文書)に「富来浦・同加多久・深井」とみえ、富来彦三郎に安堵されている。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、小谷・佐藤・横山三氏の知行分として高二六〇石余、家数四八のうち本百姓・小百姓一六、隠居・名子・庭屋・牛屋三二、男三四(うち名子一)・女三三、牛一二。正保郷帳では富来庄に属し、田高一三九石余・畑高五五石余で、新田が開かれ、茅山・柴山・竹山があり、日損所と注記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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