赤波村(読み)あがなみむら

日本歴史地名大系 「赤波村」の解説

赤波村
あがなみむら

[現在地名]用瀬町赤波

鷹狩たかがり三ヵ村の東、千代川支流赤波川沿いに位置し、上土居かみどい河原土居かわらどいいち・下土居神田じんでんの五集落がある(因幡志)。赤波川上流の板井原いたいばら村・杉森すぎもり村は当村枝郷。拝領高は一五二石余。本免五ツ三分。享保一八年(一七三三)当村草山での草刈をめぐって、当村と釜口かまのくち(現河原町)との間で争論があった(在方諸事控)。同一九年までに板井原村杉森村は領内限りの一村として独立。同年の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると当村の高二四八石、竈数七〇余。


赤波村
あかなみむら

[現在地名]大田市久利町佐摩くりちようさま

佐摩村の北に位置し、銀山ぎんざん川の支流赤波川流域に立地する。鎌倉時代末期に作成されたと考えられる久利家系図(久利文書)に久利地頭七郎祐房の庶子として三郎昌房がみえ、「赤波地頭」と記されている。久利氏は七郎祐房のあと庶子家が分立し久利市原地頭・久利鬼村地頭などが生れたが、久利赤波地頭昌房もその一人と考えられ、久利郷に属した。建武三年(一三三六)正月一九日の久利赤波妙行代友房軍忠状(同文書)に「久利郷一分地頭赤波三郎入道妙行代子息三郎二郎友房」の名がみえ、美濃郡小山こやま(現益田市)に拠る南朝方の高津長幸を攻撃している。同年五月一二日の久利赤波妙行代公房軍忠状(同文書)には赤波村とみえ、同月一〇日同村地頭三郎入道妙行代子息三郎次郎公房は上黒谷かみくろだに(現益田市)を攻撃している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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