佐摩村
さまむら
[現在地名]大田市大森町
邇摩郡の中央部やや東寄りに位置し、北は赤波村・先市原村、東は荻原村、南は三久須村、西は大国村(現仁摩町)。石見銀山が所在する村で、仙山(五三七・五メートル)に源を発する銀山川上流部に形成された銀山町と、幕府領(石見銀山領)の石見・備後六万石余を統轄する大森代官所の所在地大森町がある。
〔中世〕
貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に大家庄の一部として「さま 五丁二反六十卜」とみえる。徳治二年(一三〇七)頃佐摩村地頭四郎太郎昇蓮は福田村(獺越村)の領有をめぐり、久利郷地頭清原氏女と相論を起こしている(延慶元年一二月二四日「六波羅下知状」益田家文書)。この相論の際に作成されたと考えられる久利家系図(久利文書)によれば、雨河内・仁万(現仁摩町)、久利・佐摩四ヵ所地頭の清原(久利)行房以降庶子家が分立し、仁万・久利地頭と佐摩・雨河内地頭に分れ、その後さらに佐摩地頭と雨河内地頭に細分されていく。
佐摩村
さまむら
[現在地名]大山町佐摩
今在家村の西、孝霊山東麓にあり、坊領川(佐摩川)が北流する。大山道(坊領道)がほぼ南北に通る。村名は狭間、谷間の意味からきているという(大山町誌)。平安末期には佐摩党と称する武士団がいた。「大山寺縁起」によれば、小鴨庄司と敵対していた村尾氏は、佐摩党とよばれる武勇の者どもと語らって小鴨庄司を大檀那とする大山中門院鏡明房を殺害した。その後悪霊となった鏡明房のために佐摩党の者の多くが取殺されたという。また建長年間(一二四九―五六)には破損した大山金門の鳥居再建のため、神木とされていた「佐摩の椙村」にある大杉を佐摩の神の許しを得て金門へ引きあげたとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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