赤間町(読み)あかんまち

日本歴史地名大系 「赤間町」の解説

赤間町
あかんまち

[現在地名]博多区冷泉町れいせんまち店屋町てんやまち

奥堂町中おくのどうまちなかの中央から北に延びる両側町で、南から北へ赤間町上・赤間町下と続く。北は店屋町上・店屋町下、西は竹若番たけわかばん箔屋番はくやばん、東は小山町上おやままちかみ・小山町下(九州文化史研究所蔵博多古図など)。福岡博多近隣古図に町域は描かれるが町名は記載されない。「石城志」には「観音堂厨子赤間町を云」、「筑陽記」には赤間厨子とある。元禄三年(一六九〇)の家数は上・下とも三五軒(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数・間数は上三七軒・九六間余、下三六軒・八五間余(石城志)。慶応二年(一八六六)には上六軒・下九軒(博多店運上帳)


赤間町
あかままち

[現在地名]下関市赤間町あかまちよう

紅石べにいし山の西方に位置し、北は稲荷いなり町、南東中之なかの町と接する。

「長門国志」には「古ヘ赤間ト称フル地ハ、北ハ波夜登毛ノ浦ヨリ西南ハ西端町ト云市街マデ、二十町許ノ間ノ名ナリシト見エタリ、然ルニ今ノ赤間町ト云所ニ、始テ民戸聚居リケル故、其邑ヲ赤間ト称ヘシ也。今其名残リテ赤間町ト云街名トナレルナリ」とある。元文四年(一七三九)の「地下上申」添付絵図には「赤間丁」とあり「ヒゼンヤシキ」と書かれている。

文政七年(一八二四)頃この町には長府藩御用達の糸屋卯兵衛がいた(林門蔵手記)。寛保二年(一七四二)に描かれた「御国廻御行程記」の絵図には、赤間町は亀山かめやま八幡宮の西側で入り込んだ唐戸からと湾に面し、湾に沿って家屋が立ち並んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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