現下関市の南部に位置し、
元文四年(一七三九)の「地下上申」添付絵図によれば、現細江町辺りまでが赤間関域内となっており、
この赤間関域内に成立した町の変遷について、大内氏がこの地を統治していた頃の嘉吉年間(一四四一―四四)には阿弥陀寺・外浜・中ノ・
こうして中世から近世に次々と町が成立した赤間関の地名は「旧事本紀」に「赤間物部」、「大同類聚方」に「赤間薬 長門国赤間稲置等家 加差甫良之也美」とみえ、古くから「赤間」はこの地をさすものとされる。また行基の作といわれる「日本国図」にも当地の名がある。源俊頼の「散木奇歌集」にも「あかまといふ所にて」として
と詠まれている。
赤間関という名称について、「山陰道の竜王の中に、赤目竜とて眼の赤き魚竜有り、大竜王、赤目竜を山陽道へ使に遣す事有り、然るに此より奥の国を廻れば海路遥なる故に、国の中を蹴毀りて水を通し、扨こそ通りけり、故に其地を赤目国と号ふ。其より彼地船着と成り、能間と定め、赤間津と号ふ。赤間関と号ふ所是也」(注進案)という赤目竜説、舟舸の異名を赤馬といい当地が港であったことから名付けられたとする説、赤間は開間すなわち「あきま」で長豊二州の海峡となったので名付けられたとする説などがある。
古くから交通の要地として発達し、「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として記される「臨門」は山陽道の西終点としての赤間関と比定し、「日本後紀」(大同元年五月一四日条)にみえる「蕃客」に備えて設けられた駅館のあった地とする説もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
下関の古名で,瀬戸内海の西端に位置する海関,海港。本州と九州を結ぶ関門海峡に面し,今川了俊が〈宇治の早瀬よりも猶おちたき〉ると評した,潮流の静まるのを待たねば渡れないという地理的条件によって,関が置かれ,港として発展した。古代の長門関,下関はここを指すと思われる。鎌倉中期に長門国司が長門阿弥陀寺へ,船12艘分の関役を灯油料として寄進しており,律令時代から引き続いて長門国庁の支配下にあったことが知られる。鎌倉後期には,赤間関江口の在家が阿弥陀寺に近く,火事の際に類焼の恐れがあるとして,西方2町の在住を禁じられており,しだいに人口の増加しているようすを示している。中世後期には大内氏,さらに毛利氏が支配し,九州への進出拠点として軍事上の要衝であった。
執筆者:木村 忠夫 1600年(慶長5)長州藩の支藩として長府藩が成立し,その支配地となった。赤間関は大内時代の1441年ころ(嘉吉年間)に阿弥陀寺町,外浜(とばま)町,中ノ町,西之端町,赤間町,南部(なべ)町などが成立していたが,近世に入って西部が発展して細江町ができた。近世中期には,南部,細江がおのおの東西に分かれ,稲荷町,裏町が成立して11ヵ町となった。1739年(元文4)の〈地下上申〉絵図には,外浜丁,中ノ丁,赤間丁,稲荷町,城のこし,小細井,大細井などの地名がみえる。長府藩は南部町に赤間関在番所を設置し,在番役,町方役らに町政を支配させるとともに,民間人の大年寄,小年寄らに実務を担当させた。1672年(寛文12)河村瑞賢が西廻航路を開発し,北前船が北国筋の物資を大坂へ運送するようになると,赤間関は西廻海運の拠点として大きく発展した。近松門左衛門は《博多小女郎浪枕》で,赤間関を〈西国一の大湊,北に朝鮮釜山海,西に長崎薩摩潟,唐土・和蘭陀の代物を,朝な夕なに引うけて,千艘出づれば入船も,日に千貫万貫目,小判走れば銀が飛ぶ,金色世界もかくやらん〉と記している。
1779年(安永8)の〈問屋口銭定〉〈蔵敷仲使賃定書〉によると,赤間関は北国,山陰,中国,上方,九州筋などの商品が集散する重要な商品流通拠点となり,穀物類のみでなく生活に関係するすべての商品を取り扱い,活発な商業活動を展開していた。長府藩は15種類の株を許可し,98年(寛政10)に株札400枚を認めた。1768年(明和5)長州藩は物資の交易拠点として発展していた赤間関に着目し,諸国廻船を引き付けるために,本藩領伊崎の開削を行い,港町を形成して米穀の売りさばき市場を創設するとともに,越荷業務を開始した。越荷とは,積荷の売りさばきを望む他国廻船に対して,倉庫を貸して積荷を陸揚げさせ,商談が成立するまでそれを質物として銀を貸し付けたり,蔵敷料をとるものであった。これによって赤間関はさらに西部へ発展した。伊崎新地には本藩領内から中野半左衛門や市原杢左衛門らが進出し,豪商として薩長交易や松前交易で大きな活躍をするようになった。討幕運動で重要な役割を果たした白石正一郎は,伊崎新地に隣接する竹崎に居を置く豪商であった。赤間関には1818年ころ(文政年間)に米会所が開かれ,61年(文久1)に西南部町に産物会所が置かれ,米の取引が活発に行われた。赤間関は江戸幕府の将軍就任などを賀して来朝する朝鮮通信使の重要な寄港地であり,オランダ使節の江戸参府に際しても宿泊地となっていた。63年,長州藩は赤間関砲台から外国船を砲撃し,攘夷を決行したが,翌年英・仏・米・蘭4国艦隊の攻撃を受け,講和を結んだ(馬関戦争)。89年市制施行,1902年下関市と改称。
執筆者:小川 国治
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赤馬関・馬関とも。中世,現在の山口県下関市赤間町付近にあった関。その後地名となって近代に及ぶ。関の史料的初見は「吾妻鏡」元暦2年(1185)正月条。現在の山口県上関(かみのせき)町にあった竈戸関(かまどのせき)(上関)に対応して下関とも称された。1864年(元治元)に英・仏・米・蘭の四国艦隊と萩藩が交戦した地としても知られる。
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…これら商人米は近畿各地などに販売されるとともに,江戸の下り米問屋に向けても回送されたわけである。中国地方では,赤間関(現,下関市)に東北・北陸地方の産米を取り扱う北米問屋が1798年(寛政10)ころに16軒あり,また,九州地方の産米および周辺産米を取り扱う万(よろず)問屋が多数あった。この両問屋は主に米を取引し,雑穀はじめ諸産物も取り扱っていた。…
…人口25万9795(1995)。当初,赤間関(あかまがせき)市と称し,県内最初の市であったが,1902年下関市と改称した。響(ひびき)灘沿岸の綾羅木(あやらぎ)川下流には弥生時代の綾羅木郷遺跡や前方後円墳仁馬山(じんばやま)古墳をはじめ多くの遺跡があり,古代条里制の遺構も残っている。…
…室町時代には,山口盆地に本拠をもつ大内氏が朝鮮や中国との貿易によって経済的基盤を築き,中央へも進出したが,この大内氏の繁栄も,防長両国の地理的条件に負うところが大きい。近世になって防長2国を領有した毛利氏は瀬戸内海沿岸の浅海を干拓して農地を開発し,米,塩の増産をすすめ,また内海航路の発達に伴って,赤間関(あかまがせき),三田尻,室積(むろづみ),上関(かみのせき),柳井などの港町が開け,なかでも赤間関(現在の下関)は長崎とともに西日本屈指の商港として繁栄した。 明治以降,山陽本線の下関までの開通(1901)によって,大陸への西日本の門戸としての地域性を強め,また北九州工業地帯の延長として,下関をはじめ内海沿岸各地に,重化学工業の展開をみた。…
※「赤間関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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