琵琶楽の1種目、およびそれに用いる楽器の名称。薩摩(さつま)琵琶とともに琵琶楽の二大流派をなす。
明治維新後、盲僧(もうそう)制度が廃止され、北九州を中心とした盲僧琵琶は衰微したが、その伝統を基に明治20年代、若い3人の音楽家が新琵琶楽を創始した。そのなかの橘智定(たちばなちじょう)(初世橘旭翁(きょくおう))と鶴崎賢定(つるさきけんじょう)は晴眼者であったが、筑前盲僧琵琶の家系を継ぐ者で、とくに前者は一時鹿児島で薩摩琵琶を学び、盲僧琵琶の楽器改良などを行っている。もう1人の吉田竹子は芸妓(げいぎ)の出身で、三味線の知識をもって新様式樹立に寄与した。1893年(明治26)吉田竹子作曲の『谷村計介(たにむらけいすけ)』が、公表された最初の作品といわれている。当時は東京を中心に薩摩琵琶が全国に流行しつつあったが、橘は自ら旭翁と名のり、吉田とともに上京し新琵琶楽の普及に努めた。その結果、旭翁の橘流が薩摩琵琶と人気を二分するに至り、それと区別して筑前琵琶と称されるようになった。以後、橘流は全国的に広まり、とくに2世旭翁は優れた作曲家であったため、大正期にはますます発展した。また、初世・2世は、初世の娘婿旭宗(きょくそう)とともに、器楽の効果をあげる目的で、本来の四弦琵琶に一弦を加え、筑前琵琶の様式を豊かにしている。3世旭翁は伯父旭宗と音楽理念を異にし、ここで橘流は旭(あさひ)会と橘会に分派する。一方、吉田竹子の門からは高峰筑風(ちくふう)が出て一時名声を博したが、後継者がなく衰えた。
楽器は薩摩琵琶よりやや小さく、四弦のものは全長約83センチメートル、五弦のものは約87センチメートルである。四弦、五弦とも柱(じゅう)は5個。四弦は斜めに、五弦は立てて構え、薄いツゲ製の撥(ばち)で弾奏する。両方とも腹板が特別処理の桐(きり)製のため音が非常に柔らかく、この音質によって、薩摩琵琶の男性的な性格に対し、筑前琵琶は女性的といわれる。歌詞は七五調を基本とするが、歌唱の切れ目だけでなく歌いながら弾奏する部分がある点が特徴的である。『湖水渡(こすいわたり)』『扇(おうぎ)の的(まと)』『壇(だん)の浦』『小督(こごう)』『衣川(ころもがわ)』などの作品が有名である。
[シルヴァン・ギニアール]
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…筑前琵琶橘流の宗家,旭会(あさひかい)会長。(1)初世(1848‐1919∥嘉永1‐大正8) 旭翁の名は1911年より。…
…箏曲界に次いで洋楽の影響を多く受けたのは長唄である。なお,この期の邦楽界に新しく加わったものとしては,薩摩琵琶,筑前琵琶,都山流(とざんりゆう)尺八,浪花節(なにわぶし)などがあげられる。薩摩琵琶は仏教寺院の法要琵琶であった盲僧琵琶をもとに室町末期から武家の教養音楽として薩摩藩に発達したものであるが,明治維新による薩摩出身者の東京進出により,郷土芸能であった薩摩琵琶も東京に紹介され,全国的な芸能になった。…
…(3)薩摩琵琶 このように盲僧琵琶はすでに世俗化の傾向を示したが,別の世俗的な琵琶楽を近世に生み出すきっかけをも提供した。それは16世紀後半に始まった薩摩琵琶と19世紀末からの筑前琵琶を代表とするいわゆる〈琵琶歌〉である。薩摩琵琶が始まった動機は,薩摩藩の島津忠良(ただよし)が武士の士気を鼓舞する目的で盲僧の楽器を借用して教訓歌を歌わせたことであったと伝えられている。…
…外来楽器の琵琶を奏する盲僧は,すでに奈良時代には存在したと思われるが,中世初頭に《平家物語》を語る平曲を表芸とする一団が活躍して地神経や荒神経を読んで地神や竈神(かまどがみ)をまつる盲僧から分離した。筑前琵琶の源流をなす筑前盲僧は,唐から直接日本に伝来した直系を称し,薩摩琵琶は鎌倉時代初期に島津氏に従って薩摩に下った盲僧の系譜を伝える。かつて地鎮祭(じちんさい)や荒神祓,土用経(どようきよう)にまわった盲僧の姿は,九州一帯や長門,石見,大和などでも見られたが,現在では国東(くにさき)半島や北九州市,対馬の一部に残るにすぎない。…
※「筑前琵琶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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