赤馬庄(読み)あかまのしよう

日本歴史地名大系 「赤馬庄」の解説

赤馬庄
あかまのしよう

赤間あかま庄ともみえ、現赤間を遺称地とする庄園。現田久たく武丸たけまる三郎丸さぶろうまる陵厳寺りようげんじ吉留よしどめなどが庄内に含まれるが、庄域は不明。建久四年(一一九三)七月二二日書写の色定法師一筆一切経賢劫経六巻(興聖寺蔵)の奥書に「赤馬」、同経八巻(同寺蔵)の奥書に「赤馬荘中道寺」などとみえる。庄園成立の事情などは不明。中道寺ちゆうどうじ地名は陵厳寺の小字に残る。貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門院(後白河院皇女覲子)の所領目録(島田文書/鎌倉遺文五)に赤馬庄が載る。上西門院(統子内親王)―後白河上皇と伝領したもので、正応六年(一二九三)四月日の鷹司兼平譲状案(鷹司家文書/鎌倉遺文二三)には「赤馬庄鷹司院御仏事料所」とあり、宣陽門院から鷹司院長子(後堀河天皇皇后)に伝領していた。康元元年(一二五六)一一月二二日には姉小路顕朝が後深草天皇に当庄所職について奏聞しているように(「弾正少弼満俊書状」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一一)、当庄は鷹司院長子から後深草天皇へと持明院統に伝来している。領家については応永二〇年(一四一三)の長講堂御領等目録(東山御文庫記録/大日本史料七―一九)法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)領のうちに「赤馬庄 速成就院」とある。同院は鳥羽上皇の皇后待賢門院璋子の御願で建立された寺、速成就そくじようじゆ(現同市下京区)は律宗奈良西大寺末流の東山ひがしやま太子堂で、花園天皇・足利尊氏らの信仰を集めた。この段階では領家職は法金剛院を離れ速成就院にあった。「看聞日記」同二六年一一月二二日条には「筑前国赤馬庄室町院領、故萩原殿太子堂御寄進云々」とある。室町院とは後堀河天皇皇女、御領は大覚寺統と持明院統で折半される。持明院統の御領は伏見宮貞成親王の伏見御領として伝来、法金剛院領も貞成親王が伝領したため当庄は室町院領と記されたのであろう。萩原殿は花園天皇の皇子直仁親王で、同親王が太子堂に寄進したものである。

建長七年(一二五五)一〇月幕府は宗像氏業に赤馬庄内の田久村を安堵しており(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)、正嘉元年(一二五七)閏三月二〇日の関東御教書案(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一一)には当庄前預所近江入道清蓮が宗像神人等を刃傷殺害したとあるように、庄内には宗像社の神人が居住していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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