花園天皇(読み)ハナゾノテンノウ

デジタル大辞泉 「花園天皇」の意味・読み・例文・類語

はなぞの‐てんのう〔‐テンワウ〕【花園天皇】

[1297~1348]第95代天皇。在位1308~1318。伏見天皇の第3皇子。名は富仁。両統迭立てつりつ時代に持明院統にあり、大覚寺統後醍醐天皇に譲位。和漢の学に通じ、「風雅和歌集」の撰者でもある。日記「花園天皇宸記」。

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精選版 日本国語大辞典 「花園天皇」の意味・読み・例文・類語

はなぞの‐てんのう‥テンワウ【花園天皇】

  1. 第九五代天皇。伏見天皇第二皇子。名は富仁(とみひと)。母は顕親門院季子。延慶元年(一三〇八)践祚し、在位一一年にして文保二年(一三一八)後醍醐天皇に譲位した。当時、持明院統・大覚寺統の両皇統迭立時代で持明院統に属したが、皇位争いには常に公正な態度をとった。和漢の学に通じ、和歌をよくし、「風雅和歌集」の撰者。また禅宗に深い関心を示し、宗峰妙超に帰依した。日記「花園天皇宸記」は鎌倉末期の朝幕関係を知る好史料として知られる。陵は京都の十楽院上陵。永仁五~貞和四=正平三年(一二九七‐一三四八

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改訂新版 世界大百科事典 「花園天皇」の意味・わかりやすい解説

花園天皇 (はなぞのてんのう)
生没年:1297-1348(永仁5-正平3・貞和4)

第95代に数えられる天皇。在位1308-18年。伏見天皇の第3子,母は洞院実雄の女顕親門院藤原季子。名は富仁。大覚寺統,持明院統のきびしい対立の中で,1301年(正安3)大覚寺統後二条天皇のあとをうけるべき持明院統側の人として,急遽,親王とされ,兄後伏見上皇の猶子になり,皇太子に立つ。08年(延慶1)後二条の死とともに即位。その皇太子は9歳年長の尊治(後醍醐天皇)であった。諸社の嗷訴,異国襲来の恐怖など鎌倉末期の不安定な社会情勢の中で,伏見の院政の下にあって,きまじめな花園は災いの責任をみずからの不徳に帰しつつ古典の読書に励んでいるが,京極為兼の失脚,伏見と後伏見の対立,伏見の死など,持明院統の退潮とともに18年(文保2)退位,後醍醐に譲位した。

 病身の花園はしばしば隠居出家しようとしながら果たさず,後宇多の院政を批判,単なる博識や器用な文章を重んずる時流に反発しつつ文字の背後にある〈道義〉を求めて学問に没頭し,天台・真言の教義をはじめ浄土宗にも関心を寄せている。その中で日野資朝を知った花園は,これを通してのちに京都梅津の長福寺開山となった月林道皎を知り,禅宗に傾倒するとともに,資朝を重用する後醍醐の意欲的な政治に強い関心と期待を抱き,22年(元亨2)以後,資朝,菅原公時らと《尚書》の研究会をはじめ,《論語》《毛詩》などにも及んでいる。しかし後醍醐の〈綸旨万能〉の姿勢や宋学学風に対して花園は批判的で,その《学道之書》に見られるように,博識,風月を排し,正統的な儒教の〈道義〉を追求しつづけ,正中の変(1324)で後醍醐に失望して以後,その態度を一段と強めた。26年(嘉暦1)みずからの猶子とした後伏見の子量仁が皇太子に立つと,その教育に専心,30年(元徳2)《誡太子書》を書き,〈大乱〉の兆す時代の中での君主のとるべき姿勢を説いている。しかしそこで花園の恐れた〈土崩瓦解〉は意外に早く到来,翌年の後醍醐の討幕失敗のあとをうけて即位した量仁(光厳天皇)の大嘗会の無事を喜び,みずから院政にのり出したのも束の間,33年(元弘3)後醍醐の反乱によりその政権は瓦解し,関東に逃れようとした花園は後伏見,光厳とともに捕らえられ,京に送還された。幼少のころから書きつづけてきた日記(《花園天皇日記》)も32年をもって終わっている。

 35年(建武2)出家,法名を遍行という。翌年,建武新政の崩壊により,光厳の院政下,その弟光明天皇が即位したのちも花園は隠棲をつづけたが,光厳による《風雅和歌集》の撰集にはみずからも加わり,仮名・真名の序を書いている。花園はまた絵画を好み,みずからも絵筆をとって日記に絵を描いており,曼殊院本《東北院歌合》はその筆になるという説もある。禅宗への没入はその後も変わらず,宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)を師とし,37年(延元2・建武4)大徳寺をその法流に伝えさせた。やがて洛西花園の萩原御所に住み,ここを関山慧玄(かんざんえげん)に管領させた。これが妙心寺である。48年(正平3・貞和4)みずからの子直仁が光厳の猶子として崇光天皇の皇太子となったが,その半月ほど後に,花園は持病の脚気で世を去った。陵墓は京都十楽院上陵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「花園天皇」の意味・わかりやすい解説

花園天皇
はなぞのてんのう
(1297―1348)

鎌倉末期の天皇(在位1308~18)。伏見(ふしみ)天皇第三皇子。母は藤原季子(顕親門院)。名は富仁(とみひと)。大覚寺(だいかくじ)統・持明院(じみょういん)統の厳しい対立のなかで、兄の後伏見(ごふしみ)天皇の猶子(ゆうし)となり、1301年(正安3)8月皇太子にたち、08年(延慶1)8月践祚(せんそ)、同11月に即位する。在位11年目の18年(文保2)2月に位を大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に譲り、太上(だいじょう)天皇となる。35年(建武2)11月、薙髪(ちはつ)して萩原殿に居す。法名遍行。正平(しょうへい)3年11月11日没。両統迭立(てつりつ)の案、いわゆる文保(ぶんぽう)の和談は治世中の文保元年(1317)4月のことである。

 天皇は幼少より学問を好み、歴代天皇の記録や和漢の史書、老荘をはじめ諸子百家にわたって読破したことがその日記にみえる。詩歌を好み『風雅(ふうが)集』を自ら撰(えら)んでいる。また宋(そう)学をよくし、つねに公卿(くぎょう)や近臣を集めて学を講論させ批評指導にあたった。これによって、強識博聞のみを誇る弊風を改め、道の行われんことを期していた。『学道之記』『誡太子書』など王道を説いた著作がある。仏教に通暁し、念仏宗や禅宗に卓見を示したが、とくに禅にひかれ宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に法を問い、興禅大燈(だいとう)国師の号を与えた。1337年(延元2)には萩原殿を寄進し、妙超の法嗣(はっす)の関山慧玄(かんざんえげん)を開山として妙心寺を開建した。陵墓は京都十楽院上陵。なお天皇の日記は、歴史上重要な記事を多く含む貴重な史料である。

[田中博美]

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百科事典マイペディア 「花園天皇」の意味・わかりやすい解説

花園天皇【はなぞのてんのう】

鎌倉末期の天皇。伏見天皇第3子。当時は両統迭立(てつりつ)時代で,天皇は持明院統であったが,皇位争いに対して常に公正の態度を持した。和歌をよくし《風雅和歌集》を監修。また禅宗に帰依し,大灯国師(宗峰妙超)を尊信した。日記《花園院宸記(しんき)》は鎌倉末期の重要史料。
→関連項目玉葉和歌集豪信後伏見天皇二条為世似絵鑁阿寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「花園天皇」の意味・わかりやすい解説

花園天皇
はなぞのてんのう

[生]永仁5(1297).7.25. 京都
[没]正平3=貞和4(1348).11.11. 京都
第 95代の天皇 (在位 1308~18) 。名,富仁。法名,遍行。伏見天皇の第2皇子。母は左大臣実雄の娘,顕親門院藤原季子。徳治3 (08) 年8月践祚,延慶1 (08) 年 11月即位。持明院統であったが,公正な態度を持し,文保2 (18) 年大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して太上天皇の尊号を受けた。和漢の学に通じ,著作に『学道之記』『論語抄』『誡皇太子書』がある。また詩歌をよくし,『風雅集』の撰にもあたった。禅宗に帰依して大燈国師 (宗峰妙超) を尊信し妙心寺を創建,関山慧玄を開山に招請した。自筆日記の『花園天皇宸記』 (47巻) は,重要な史料。陵墓は京都市東山区粟田口三条坊町の十楽院上陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「花園天皇」の解説

花園天皇 はなぞのてんのう

1297-1348 鎌倉時代,第95代天皇。在位1308-18。
永仁(えいにん)5年7月25日生まれ。伏見天皇の皇子。母は藤原季子(顕親門院)。後伏見天皇の異母弟。大覚寺統の後二条天皇のあと即位。持明院統。在位中は父,つづいて兄が院政をおこなう。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立(てつりつ)案(文保(ぶんぽう)の和談)は不調におわるが,大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に譲位した。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年11月11日死去。52歳。墓所は十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は富仁(とみひと)。法名は遍行。別名に萩原院。著作に「誡太子書」,日記に「花園院宸記(しんき)」。
【格言など】徳なくて上に立つことを恥じよ(「誡太子書」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「花園天皇」の解説

花園天皇
はなぞのてんのう

1297.7.25~1348.11.11

在位1308.8.26~18.2.26

伏見天皇の皇子。名は富仁(とみひと)。母は洞院(とういん)実雄の女顕親門院季子。1301年(正安3)持明院統の分裂をさけるため,父の命で兄後伏見上皇の猶子となり,大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立つ。08年(延慶元)即位。在位中の前半は父伏見上皇 が,後半は兄後伏見上皇が院政をとった。18年(文保2)後二条の弟後醍醐天皇に譲位。35年(建武2)出家ののち萩原殿に住んだ。法名遍行。和漢の学問に通じ,日記「花園天皇宸記」には学芸に関する記述が多い。著書「誡太子書」「学道の御記」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「花園天皇」の解説

花園天皇
はなぞのてんのう

1297〜1348
鎌倉末期の天皇(在位1308〜18)
伏見天皇の第2皇子。在位当時は両統迭立 (てつりつ) の時代で,持明院統に属し,在位11年で大覚寺統の後醍醐 (ごだいご) 天皇に譲位した。和漢の学にすぐれ,和歌をよくし『風雅和歌集』の撰者でもある。その日記が『花園院宸記』。

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367日誕生日大事典 「花園天皇」の解説

花園天皇 (はなぞのてんのう)

生年月日:1297年7月25日
鎌倉時代後期の第95代の天皇
1348年没

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