朝日日本歴史人物事典 「上西門院」の解説
上西門院
生年:大治1.7.23(1126.8.13)
平安後期,鳥羽天皇の第2皇女。母は待賢門院藤原璋子。初め恂子といい,のち統子と改名。大治1(1126)年8月に親王宣下,翌年の4月には准三后となり,同時にわずか2歳で賀茂斎院に卜定される。長承1(1132)年6月,病のために斎院を出る。3年に行われた斎院退下の儀式に当たる唐崎の御祓では,鳥羽上皇も待賢門院も二条京極に車を連ねて見物,華やかな有様で,待賢門院の別当源師時の日記『長秋記』によれば,きわめて「端正美麗」な少女だったという。久安1(1145)年母の待賢門院が死去すると,その遺領の仁和寺法金剛院領を受け継ぎ,それがのちの上西門院領の中核となる。同母弟の雅仁親王(後白河天皇)が即位すると,保元3(1158)年にその准母として皇后となり,翌年には院号宣下を得て上西門院となる。その周りには待賢門院ゆかりの女房や侍が多く祗候しており,源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹を妻とし,頼朝自身も上西門院に仕えてその蔵人となり,右兵衛権佐となるなど,義朝・頼朝父子の立身にはこの女院の存在が大きかった。永暦1(1160)年に同母弟の仁和寺御室覚性入道親王を戒師として,法金剛院で出家。その死に際し,弟の後白河法皇は悲嘆のあまり数日の間,門を閉ざし誰とも会おうとしなかったと伝える。<参考文献>五味文彦「女院と女房・侍」(『院政期社会の研究』)
(土谷恵)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報