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後深草天皇 ごふかくさてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後深草天皇
ごふかくさてんのう

[生]寛元1(1243).6.10. 京都
[没]嘉元2(1304).7.16. 京都
第 89代の天皇 (在位 1246~59) 。名は久仁,法名素実,常盤井殿,また富小路殿と称する。後嵯峨天皇の第2皇子。母は中宮大宮院藤原きっ子 (太政大臣西園寺実氏の娘) 。寛元4 (46) 年践祚,次いで即位。

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デジタル大辞泉の解説

ごふかくさ‐てんのう〔‐テンワウ〕【後深草天皇】

[1243~1304]第89代天皇。在位、1246~1259。後嵯峨天皇の第3皇子。名は久仁。父の後嵯峨上皇が院政を執り、その命によって弟の亀山天皇に譲位。のち、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統皇位継承で対立した。日記「後深草院宸記」がある。

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百科事典マイペディアの解説

後深草天皇【ごふかくさてんのう】

在位1246年−1259年。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。在位中は父上皇が院政をとり,1259年には上皇の命で弟亀山天皇が即位した。以後皇統が亀山天皇大覚寺(だいかくじ)統に相伝されそうになったため,鎌倉幕府の斡旋で1287年に皇子伏見天皇践祚(せんそ)を実現し,院政をしいた。
→関連項目秋月荘後宇多天皇宣陽門院長講堂百練抄(百錬抄)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後深草天皇 ごふかくさてんのう

1243-1304 鎌倉時代,第89代天皇。在位1246-60*。
寛元元年6月10日生まれ。後嵯峨(ごさが)天皇の第3皇子。母は藤原姞子(きっし)(大宮院)。持明院統最初の天皇。父の譲位をうけて4歳で即位。父が院政をおこなう。父の意向により17歳で同母弟の亀山(かめやま)天皇(大覚寺統)に譲位。28年後の弘安(こうあん)10年子の煕仁(ひろひと)親王が伏見天皇(第92代)となって院政をしいた。嘉元(かげん)2年7月16日死去。62歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は久仁(ひさひと)。法名は素実。日記に「後深草院宸記(しんき)」。
【格言など】栄ゆべきほどぞ久しき伏見山おひそふ松の枝をつらねて(「増鏡」)

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世界大百科事典 第2版の解説

ごふかくさてんのう【後深草天皇】

1243‐1304(寛元1‐嘉元2)
第89代に数えられる天皇。在位1246‐59年。後嵯峨天皇の第2皇子,名は久仁。在位中は父上皇の院政で,1259年(正元1)上皇の命で弟亀山天皇に譲位し,以後皇統が亀山天皇の大覚寺統に相伝されそうになると,鎌倉幕府の斡旋で皇子伏見天皇の践祚を実現,みずからは院政をしいた。以後この皇統は持明院統とよばれ,両統迭立の基となった。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。両統迭立【飯倉 晴武】

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大辞林 第三版の解説

ごふかくさてんのう【後深草天皇】

1243~1304) 第八九代天皇(在位1246~1259)。名は久仁。父後嵯峨天皇が弟亀山天皇(第九〇代)を愛したため院政を開けず、長く不遇をかこっていたが1287年、子の伏見天皇が即位し、初めて院政をとった。譲位後持明院に入ったことから、その皇統を持明院統という。日記「後深草院宸記しんき」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後深草天皇
ごふかくさてんのう
(1243―1304)

第89代天皇(在位1246~59)。名は久仁(ひさひと)。法名素実(そじつ)。常盤井(ときわい)殿また富小路院(とみのこうじいん)殿と称した。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の女(むすめ)大宮院(おおみやいんきっし)。父天皇の譲を受け位についたが、父の命により1259年(正元1)位を弟亀山(かめやま)天皇に譲った。その後、子伏見(ふしみ)天皇、孫後伏見(ごふしみ)天皇の代に院政をとり、90年(正応3)出家し、嘉元(かげん)2年7月16日没。京都の深草北陵に葬る。後深草天皇は持明院(じみょういん)統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。持明院、大覚寺(だいかくじ)両統の対立が激化した伏見天皇の代、浅原為頼(あさはらためより)の伏見天皇殺害未遂事件があった。後深草天皇は、33年間にわたり100巻に余る日記を記したと伝えられており、これを『水旱宸記(すいかんしんき)』とも称したが、今日ではそのほとんどが失われ、わずか10巻だけが伝存する。[村田正志]

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世界大百科事典内の後深草天皇の言及

【弁内侍日記】より

…著者は中務大輔藤原信実の娘(実名不詳)で,肖像画の名手藤原隆信の孫に当たる。後深草天皇に皇太子時代から仕えた。日記の期間は1246年(寛元4)の後深草天皇即位から52年(建長4)ころまで,内容は200首に及ぶ著者の歌を中心に,宮廷生活における行事や見聞を記す。…

【両統迭立】より

…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…

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