近藤篤山 こんどう-とくざん
1766-1846 江戸時代後期の儒者。
明和3年11月9日生まれ。天明8年大坂で尾藤二洲(びとう-じしゅう)に入門,のち江戸の昌平黌(しょうへいこう)でまなぶ。寛政9年伊予(いよ)(愛媛県)に帰郷し塾をひらく。享和(きょうわ)2年伊予小松藩主一柳頼親(ひとつやなぎ-よりちか)にまねかれ藩校養正館教授となる。伊予聖人とよばれた。弘化(こうか)3年2月26日死去。81歳。本姓は高橋。名は春崧(しゅんすう)。字(あざな)は駿甫。通称は大八。別号に竹馬など。著作に「篤山余稿」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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近藤篤山 (こんどうとくざん)
生年月日:1766年11月9日
江戸時代後期の儒学者
1846年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の近藤篤山の言及
【伊予国】より
…宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。寛政の三博士の一人尾藤二洲は川之江に生まれ,その弟子近藤篤山は小松藩に仕えて伊予聖人といわれた。松山藩の日下伯巌も朱子学者で,心学の田中一如は松山に六行(りくこう)舎を開いた。…
※「近藤篤山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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