江戸後期の儒学者。名は孝肇(たかもと)、字(あざな)は志尹(しいん)、通称は良佐。伊予国川之江の廻船(かいせん)業者の家に生まれた。幼時に足を傷め、学問に励んで荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞学などを学んだ。24歳のとき大坂に出て片山北海(かたやまほっかい)(1723―1790)に師事、同門の頼春水(らいしゅんすい)、懐徳堂(かいとくどう)の中井竹山(ちくざん)・履軒(りけん)らと交わった。詩文をよくする一方、思想面では朱子学に転じて、頼春水・春風(1753―1825)、古賀精里(こがせいり)らの同志と、これを「正学」として考究・唱導した。寛政(かんせい)異学の禁に際して、1791年(寛政3)幕府に召し出され、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を20年勤めて江戸に没した。岡田寒泉(おかだかんせん)(または古賀精里)、柴野栗山(しばのりつざん)とともに寛政(かんせい)の三博士(はかせ)と称せられた。著述に『正学指掌(せいがくししょう)』(1784)『素餐(そさん)録』(1777成立)など、また集として『静寄軒集』(刊年未詳)がある。
[黒住 真 2016年6月20日]
『頼惟勤著『尾藤二洲について』(『日本思想大系37 徂徠学派』所収・1972・岩波書店)』▽『白木豊著『尾藤二洲伝』(1979・川之江市)』▽『頼一著『近世後期朱子学派の研究』(1986・渓水社)』
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(梅澤秀夫)
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江戸中後期の儒学者。名は孝肇,字は志尹。約山とも号する。伊予川之江の廻船業の家に生まれる。5歳のとき,足疾を得て学問に志し,徂徠学を学ぶ。24歳で大坂に出て片山北海に師事。まもなく朱子学に転向,頼春水・古賀精里らと研究し,私塾で教えるかたわら正学再興を志す。1791年(寛政3)幕府の儒者に登用され,昌平黌の学政確立に尽力した。寛政の三博士の一人。主著は《素餐録(そさんろく)》《正学指掌》。
執筆者:頼 祺一
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1747.10.8~1813.12.14
江戸後期の朱子学派の儒者。名は孝肇(たかもと),字は志尹(しいん),通称良佐。伊予国川之江の廻船業者の子。大坂の片山北海に入門するが,頼(らい)春水・古賀精里らと正学を学び朱子学を選んだ。大坂に開塾したが,1791年(寛政3)幕府に登用され,聖堂学問所の儒者として寛政期の学政に参画した。寛政の三博士の1人。著書「素餐録」「正学指掌」「称謂私言」。
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…宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。寛政の三博士の一人尾藤二洲は川之江に生まれ,その弟子近藤篤山は小松藩に仕えて伊予聖人といわれた。松山藩の日下伯巌も朱子学者で,心学の田中一如は松山に六行(りくこう)舎を開いた。…
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