尾藤二洲(読み)ビトウニシュウ

デジタル大辞泉 「尾藤二洲」の意味・読み・例文・類語

びとう‐にしゅう〔‐ニシウ〕【尾藤二洲】

[1747~1814]江戸後期の儒学者。伊予の人。名は孝肇たかもとあざなは志尹。古文辞学朱子学を学び、寛政異学の禁参画昌平坂学問所教官。寛政の三助一人。著「素餐録」「正学指掌」など。びとうじしゅう。

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精選版 日本国語大辞典 「尾藤二洲」の意味・読み・例文・類語

びとう‐じしゅう【尾藤二洲】

  1. 江戸後期の儒者。名は孝肇。字(あざな)は志尹。通称良佐。伊予国川之江愛媛県四国中央市)の人。宇田川楊軒に就いて徂徠学を修めたのち、上坂して片山北海の門で朱子学に転じ、「寛政異学の禁」に参画。寛政三年(一七九一幕府に召されて昌平黌教官となった。寛政三博士の一人。著「静寄世筆」「冬読書余」「正学指掌」「素餐録」「静寄軒集」など。延享四~文化一〇年(一七四七‐一八一三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾藤二洲」の意味・わかりやすい解説

尾藤二洲
びとうじしゅう
(1747―1813)

江戸後期の儒学者。名は孝肇(たかもと)、字(あざな)は志尹(しいん)、通称は良佐。伊予国川之江の廻船(かいせん)業者の家に生まれた。幼時に足を傷め、学問に励んで荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞学などを学んだ。24歳のとき大坂に出て片山北海(かたやまほっかい)(1723―1790)に師事、同門の頼春水(らいしゅんすい)、懐徳堂(かいとくどう)の中井竹山(ちくざん)・履軒(りけん)らと交わった。詩文をよくする一方、思想面では朱子学に転じて、頼春水・春風(1753―1825)、古賀精里(こがせいり)らの同志と、これを「正学」として考究・唱導した。寛政(かんせい)異学の禁に際して、1791年(寛政3)幕府に召し出され、昌平黌(しょうへいこう)の儒官を20年勤めて江戸に没した。岡田寒泉(おかだかんせん)(または古賀精里)、柴野栗山(しばのりつざん)とともに寛政(かんせい)の三博士(はかせ)と称せられた。著述に『正学指掌(せいがくししょう)』(1784)『素餐(そさん)録』(1777成立)など、また集として『静寄軒集』(刊年未詳)がある。

[黒住 真 2016年6月20日]

『頼惟勤著『尾藤二洲について』(『日本思想大系37 徂徠学派』所収・1972・岩波書店)』『白木豊著『尾藤二洲伝』(1979・川之江市)』『頼一著『近世後期朱子学派の研究』(1986・渓水社)』

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百科事典マイペディア 「尾藤二洲」の意味・わかりやすい解説

尾藤二洲【びとうじしゅう】

江戸中・後期の朱子学者。名は孝肇,字は志尹。伊予(いよ)川之江の廻船業家に生まれる。5歳で足を折り,不自由な身体を押して学に志し,片山北海復古学を学び,頼春水に朱子学を受けた。寛政(かんせい)改革のとき幕府の儒者となり,昌平黌教官とし学制制定に参加,柴野栗山らとともに〈寛政の三博士〉の一人となった。著書《正学指掌》《素餐録(そさんろく)》《称謂私言(しょういしげん)》《静寄軒(せいきけん)文集》など。
→関連項目岡田寒泉寛政の三博士古賀精里頼山陽

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改訂新版 世界大百科事典 「尾藤二洲」の意味・わかりやすい解説

尾藤二洲 (びとうじしゅう)
生没年:1747-1813(延享4-文化10)

江戸中後期の儒学者。名は孝肇,字は志尹。約山とも号する。伊予川之江の廻船業の家に生まれる。5歳のとき,足疾を得て学問に志し,徂徠学を学ぶ。24歳で大坂に出て片山北海に師事。まもなく朱子学に転向,頼春水・古賀精里らと研究し,私塾で教えるかたわら正学再興を志す。1791年(寛政3)幕府の儒者に登用され,昌平黌の学政確立に尽力した。寛政の三博士の一人。主著は《素餐録(そさんろく)》《正学指掌》。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾藤二洲」の解説

尾藤二洲 びとう-じしゅう

1747-1814* 江戸時代中期-後期の儒者。
延享4年10月8日生まれ。片山北海にまなび,頼春水(らい-しゅんすい)らとまじわる。徂徠(そらい)学から朱子学に転じ寛政3年昌平黌(しょうへいこう)教授。古賀精里,柴野栗山(しばの-りつざん)とともに寛政の三博士といわれた。文化10年12月14日死去。67歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。名は孝肇(たかもと)。字(あざな)は志尹(しいん)。通称は良佐(りょうすけ)。別号に約山。著作に「正学指掌(せいがくししょう)」「素餐(そさん)録」など。
【格言など】人を使うは,なお馬を使うがごとし。あるいはその馴良(じゅんりょう)なるを取り,あるいはその神駿(しんしゅん)なるを取る

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾藤二洲」の意味・わかりやすい解説

尾藤二洲
びとうにしゅう

[生]延享2(1745).10.8. 伊予,川之江
[没]文化10(1813).12.4.
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。名は孝肇,字は志尹,通称は良佐,号は二州,約山。大坂に出て片山北海に古文辞学を学んだが,のち中井竹山,同履軒らと交わって朱子学に転じた。寛政3 (1791) 年松平定信に登用されて昌平黌教官となり,柴野栗山らと「寛政異学の禁」に参画した。寛政の三博士の一人。著書『正学指掌』 (87) ,『称謂私言』 (1800成立) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾藤二洲」の解説

尾藤二洲
びとうじしゅう

1747.10.8~1813.12.14

江戸後期の朱子学派の儒者。名は孝肇(たかもと),字は志尹(しいん),通称良佐。伊予国川之江の廻船業者の子。大坂の片山北海に入門するが,頼(らい)春水・古賀精里らと正学を学び朱子学を選んだ。大坂に開塾したが,1791年(寛政3)幕府に登用され,聖堂学問所の儒者として寛政期の学政に参画した。寛政の三博士の1人。著書「素餐録」「正学指掌」「称謂私言」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尾藤二洲」の解説

尾藤二洲
びとうじしゅう

1747〜1813
江戸後期の朱子学者
伊予(愛媛県)の人。大坂に出て,初め古文辞学,のち朱子学を学んだ。柴野栗山にすすめて松平定信に寛政異学の禁を行わせ,1791年には昌平坂学問所の儒官となり朱子学の振興につとめた。柴野栗山・古賀精里と並び寛政の三博士と称された。著書に『正学指掌』『静寄余録』など。

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367日誕生日大事典 「尾藤二洲」の解説

尾藤二洲 (びとうじしゅう)

生年月日:1747年10月8日
江戸時代中期;後期の儒学者
1814年没

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世界大百科事典(旧版)内の尾藤二洲の言及

【伊予国】より

…宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。寛政の三博士の一人尾藤二洲は川之江に生まれ,その弟子近藤篤山は小松藩に仕えて伊予聖人といわれた。松山藩の日下伯巌も朱子学者で,心学の田中一如は松山に六行(りくこう)舎を開いた。…

※「尾藤二洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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