近衛殿跡(読み)このえどのあと

日本歴史地名大系 「近衛殿跡」の解説

近衛殿跡
このえどのあと

平安京里内裏の一で、「拾芥抄」東京図に烏丸からすま小路(現烏丸通)西、室町むろまち小路(現室町通)東、鷹司たかつかさ小路(現下長者町通)南、近衛このえ大路(現出水通)北に方一町を占め、現在の鷹司町の南、桜鶴円おうかくえん町の中央以北、中出水なかでみず町の中央以北、近衛町の中央以東にあたる。

もと関白藤原忠通の邸宅、近衛第であった。康治二年(一一四三)五月五日、忠通は近衛第にもかも川の水を引いたが、そのため河水が禁中にまで流入している(本朝世紀)。仁平元年(一一五一)一一月一三日近衛天皇が六条東洞院殿から近衛第に移り、里内裏となった。藤原忠通は美福門院得子と結んで父忠実に対抗しており、近衛天皇は得子の子である。だが近衛天皇は久寿二年(一一五五)七月に亡くなり、里内裏近衛殿の歴史は四年に満たなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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