安土(あづち)桃山時代の武将。信長の嫡子。幼名奇妙(きみょう)、菅九郎(かんくろう)を名のる。1572年(元亀3)北近江(おうみ)に初陣して浅井長政(ながまさ)を攻め、74年の長島一向一揆(いっこういっき)攻め、75年の長篠(ながしの)の戦いに従軍。出羽介(でわのすけ)、秋田城介に任ぜられた。75年11月には信長より家督を譲られ、尾張(おわり)(愛知県)、美濃(みの)(岐阜県)を領し岐阜城主となる。77年雑賀(さいか)衆を討ち、また松永久秀討伐により従三位(じゅさんみ)左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)。播磨(はりま)攻め、石山合戦、有岡城攻めに参陣。82年甲斐(かい)の武田勝頼(かつより)を攻め先鋒(せんぽう)として功があった。武田滅亡時、恵林寺(えりんじ)の快川紹喜(かいせんじょうき)らを焼殺した。さらに中国毛利(もうり)攻めのため上洛(じょうらく)し、妙覚寺に寄宿中、本能寺の変にあい、二条御所にこもって明智光秀(あけちみつひで)軍と戦い、自刃する。信忠の子三法師(さんぼうし)(のち秀信)が織田家を継ぐが、関ヶ原の戦い後改易。法名大雲院殿仙巌大禅定門。大徳寺総見院に葬る。
[脇田 修]
(小和田哲男)
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安土桃山時代の武将。信長の長子。幼名は奇妙丸,長じて菅九郎。浅井攻めを初陣とし,その後諸方で戦功があった。1575年(天正3)出羽介,翌年秋田城介。信長が安土に移ると代わって岐阜城主。77年,紀伊雑賀(さいが)攻めに続き大和信貴山(しぎさん)に松永久秀を滅ぼす。82年,信濃から甲斐に攻め入り武田勝頼を滅ぼす。中国攻めのため上洛,京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知るが,本能寺救援は果たせず,二条城で光秀方に包囲され自刃。
執筆者:久留島 典子
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1557~82.6.2
織豊期の武将。信長の長男。初名信重(のぶしげ)。1575年(天正3)長篠の戦後,甲斐武田氏の属城美濃国岩村城を攻略し,その功績で信長から尾張・美濃両国を譲られ,岐阜城主となる。77年松永久秀討伐の功で従三位左中将に叙任された。82年武田氏との戦では織田軍の先鋒となり,信濃の諸城を落とし,甲斐に進軍して武田氏を滅亡させた。本能寺の変で二条御所に明智勢を迎え自害した。
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…旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。
【古代】
東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。…
…1573年(天正1)信玄の没後武田家をついだ勝頼は,75年に長篠の戦で織田信長,徳川家康の連合軍に敗れ,以後武田家は衰退に向かった。これに対し信長は82年2月に武田氏追討の兵をおこし,主力の織田信忠軍は木曾口と岩村口から進撃して,伊那の諸城を次々に陥れた。また家康も駿河口から攻撃を開始し,武田氏の一族穴山梅雪を味方にした。…
…信長は1日夜を茶会,囲碁で過ごし深夜就寝したが,鉄砲の音ではじめて光秀の襲撃を知り,森乱法師(蘭丸)等近臣と防戦のすえ火中で自殺した。父より早く上洛していた織田信忠も1日深夜本能寺から妙覚寺に帰り,2日朝村井貞勝等の通報で襲撃を知り,本能寺に入ろうとしたが及ばず,誠仁親王の二条御所にこもって防戦のすえ自殺した。光秀はその日午後京都をたって近江に向かったが,山岡景隆が瀬田橋を焼いたのでいったん坂本に行き,5日安土を占領,8日再び坂本城に帰った。…
※「織田信忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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