近見村・中近見村(読み)ちかみむら・なかちかみむら

日本歴史地名大系 「近見村・中近見村」の解説

近見村・中近見村
ちかみむら・なかちかみむら

[現在地名]熊本市近見町

慶長八年(一六〇三)および同九年九月の検地帳は近見村として記されるが、宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では上・中の近見村が同一帳面に記され、下近見村は別冊となっている。天保一三年(一八四二)の本庄手永手鑑によると上近見村・中近見村の庄屋は政右衛門で、戸数・人口・馬・村境はいっしょに記録されている。上近見村・中近見村の村境は東は田迎手永の田迎たむかえ村、西牟田にしむた村、西は横手手永のしま島新しましん村、南は下近見村・高江たかえ村、北は平田ひらた村である。元応二年(一三二〇)一月八日の神蔵庄鎮守宮祭次第案(詫摩文書)より後年のものとみられる十禅師祭礼諸役注文(同文書)の九月九日の祭料米、三社の造営、赤縁の畳二一畳に「ちかミの分」「ちかミの御役」とあり、一月九日の歩射出仕の役に「ちかミの御たいくわん」とある。天授二年(一三七六)二月二三日菊池武朝は近見村半分地頭職を阿蘇御嶽(西巌殿寺)に寄進している(「菊池賀々丸寄進状写」阿蘇家文書)。この地は一族の対馬守武貞の当知行の兵粮料所であったが、武貞も同日書状で、代官が来たならば引渡すことを約束している(「対馬守武貞書状写」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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