西巌殿寺(読み)さいがんでんじ

日本歴史地名大系 「西巌殿寺」の解説

西巌殿寺
さいがんでんじ

[現在地名]阿蘇町黒川

阿蘇なか岳の噴火口の西方本堂をもち、山麓黒川の坊中くろかわのぼうちゆう根本中堂をもつ。雲生山と号し、天台宗本尊は十一面観音。山頂の寺(本堂)は、天竺毘舎利国の最栄読師が神亀三年(七二六)来朝し十一面観音像をつくり礼拝した場所で、西の巌殿にしのいわどのとよんだのが寺名の起りと伝える。本堂は「上宮本堂」とも記されている。西巌殿寺は阿蘇山三七坊の総称で、かつてその名を冠する寺は存在しなかった。排仏毀釈後、学頭坊跡に再興された現在の寺の名はこれに由来する。

天正年間(一五七三―九二)山上の坊は衰退し、慶長四年(一五九九)一一月二九日の加藤清正判物(西巌殿寺文書)に基づき黒川村に坊舎が復興され、衆徒行者山伏還住させられることになった。この判物の宛名が「長善坊寺社中」とあるためか、長善坊に関する伝説が二、三残る。阿蘇宮由来略(「国誌」所収)には、天正年中社寺散乱の時長善坊のみとどまったため、上の坊として遇されることになったとある。蘇渓温故(「国誌」所収)は長善坊契雅法印が黒川村に再興したと記す。慶応四年(一八六八)の調査のおり書かれた肥後国阿蘇山西巌殿寺由来略記(「古坊中」所収)は次のように述べている。

<資料は省略されています>

阿蘇山上には本堂をはじめとする堂社が再興された。元禄一五年(一七〇二)寺社奉行の調べに対して「当山之儀、山号阿蘇山、惣寺号西巌殿寺と申候、惣院号分明相知不申候、開山最栄読師と申候、神亀三年二月朔日、天竺より来朝と申伝候」と書出した(「阿蘇山衆徒年行事書上案」西巌殿寺文書)。また阿蘇山旧記抜書(同文書)には「最栄ノ旧室西ノ巌殿いわと寺ト□□今ノ本堂也」とある。本堂は五間に九間の栃葺で南に向かって建ち、内陣に本尊の十一面観音と脇士、不動明王毘沙門天が、外陣に慈恵大師と最栄読師の木像が安置されていた。本堂の後方、噴火口へ向かう登山道に沿って中宮権現堂・山王権現二一社・天神社・乙護法社・役行者堂その他三〇社余の小社が祀られていた(古坊中)。野田泉光院は、「日本九峰修行日記」で文化九年(一八一二)一〇月二八日阿蘇山に登り、「上宮迄仏神多く勧請有り」と記している。役行者堂は三間に三間の栃葺で、石像の前鬼・後鬼を従えた役行者像があり、九尺に九尺の石の護摩炉が置かれていた。本堂の近くに二間に六間半の番屋があり、輪番で麓から登ってくる山伏が宿舎にした。

黒川村の坊舎は豊後街道を挟んで南側に本堂、つまり噴火口に近い方に衆徒方、北側に行者方の坊舎が建てられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「西巌殿寺」の解説

西巌殿寺(さいがんでんじ)

熊本県阿蘇市にある寺院。阿蘇中岳山麓に位置する。天台宗。山号は雲生山。本尊は十一面観音菩薩。神亀年間、インド渡来僧の最栄読師による開山と伝わる。かつては中岳火口付近に本堂があったが、2001年、火災のため焼失。毎年4月の阿蘇山観音まつりで行われる修験者による火渡りや湯立ての荒行で知られる。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の西巌殿寺の言及

【阿蘇[町]】より

…セッコウ泉,40~55℃。農村では和牛と米を柱に,タカナ漬,トウモロコシ,トマトなどを産し,囃子と踊りの虎舞,古代からの火焚(ひたき)神事が伝わり,阿蘇山麓の坊中,阿蘇信仰にゆかりある西巌殿寺に後奈良天皇の宸筆(重要文化財)をはじめ,多くの文化財がある。【岩本 政教】。…

※「西巌殿寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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