日本歴史地名大系 「西巌殿寺」の解説
西巌殿寺
さいがんでんじ
阿蘇
天正年間(一五七三―九二)山上の坊は衰退し、慶長四年(一五九九)一一月二九日の加藤清正判物(西巌殿寺文書)に基づき黒川村に坊舎が復興され、衆徒・行者・山伏が還住させられることになった。この判物の宛名が「長善坊寺社中」とあるためか、長善坊に関する伝説が二、三残る。阿蘇宮由来略(「国誌」所収)には、天正年中社寺散乱の時長善坊のみとどまったため、上の坊として遇されることになったとある。蘇渓温故(「国誌」所収)は長善坊契雅法印が黒川村に再興したと記す。慶応四年(一八六八)の調査のおり書かれた肥後国阿蘇山西巌殿寺由来略記(「古坊中」所収)は次のように述べている。
阿蘇山上には本堂をはじめとする堂社が再興された。元禄一五年(一七〇二)寺社奉行の調べに対して「当山之儀、山号者阿蘇山、惣寺号者西巌殿寺と申候、惣院号者分明相知不申候、開山者最栄読師と申候、神亀三年二月朔日、天竺より来朝と申伝候」と書出した(「阿蘇山衆徒年行事書上案」西巌殿寺文書)。また阿蘇山旧記抜書(同文書)には「最栄ノ旧室西ノ
黒川村の坊舎は豊後街道を挟んで南側に本堂、つまり噴火口に近い方に衆徒方、北側に行者方の坊舎が建てられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報