日本歴史地名大系 「遊部村」の解説 遊部村ゆするべむら 山形県:酒田市旧田川郡地区遊部村[現在地名]酒田市遊摺部大宮(おおみや)村の東にあり、対岸は新堀(にいぼり)村。最上川下流右岸に位置するが、嘉永五年(一八五二)までは左岸にあった。万治二年(一六五九)上余目組遊摺部新田村切開高として一六一石余、家数四二(「切開之覚」飽海郡誌)。寛文八年(一六六八)には一五三石余、家数三〇(大泉紀年)。庄内要覧では免二ツ、家数五〇。地名は川の流れによって砂が揺り動かされた所から生じたなどといわれる。もとは田川郡に属し、最上川左岸の島(しま)の内(うち)(現東田川郡余目町)に位置し、近くに同川によって形成された門田(かどた)沼・丸(まる)沼・由摺部(ゆするべ)沼・跡(あと)沼など多くの沼があったと伝える。 遊部村あそぶむら 富山県:西礪波郡福光町遊部村[現在地名]福光町遊部・遊部川原(あそぶがわら)吉江中(よしえなか)村の西、小矢部(おやべ)川東岸にある。西岸には飛地の遊部川原がある。「大谷一流諸家分脈系図」には、本願寺五世綽如の子周覚の孫にあたる賢誓は越前大野(おおの)に住したのち「越中遊村」に住したとある。元和五年(一六一九)の家高新帳には「浅生部」とみえ、くら原村藤兵衛組に属し、役家数三六。正保郷帳では高八八四石余で田方五八町九反余、新田高は三〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八六一石、免五ツ三歩、小物成は山役一六六匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数六五・人数三六〇、頭振家数五・人数二七、馬五、村医師小泉養元(百姓九兵衛)がいた(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by