日本歴史地名大系 「道守庄」の解説
道守庄
ちもりのしよう
福井市街の西方、足羽川と日野川の合流点に成立した奈良東大寺領の初期荘園。天平神護二年(七六六)一〇月一九日付の足羽郡大領正六位上生江東人解(東南院文書)によれば、彼は郡領に就任する以前、私の功力をもって治開した墾田一〇〇町を東大寺功徳料に寄進、これによって東大寺領道守庄が成立した。生江東人は郡司就任以前、造寺司史生を務め、寺家野占寺使として越前・越中に赴いた経験をもち、郡司就任後は越前の荘園経営の中心的人物として活躍した。
天平神護二年の寺田整理に際して作成された同年一〇月二一日付越前国司解(同文書)によれば、道守村として計三四町六段六四歩であり、その内訳は改正田一四町八段一八六歩・相替百姓口分田并買墾田一二町五段二四四歩・生江東人所進墾田七町一段三五四歩。その坪付は西北一条十寒江里・十一上味岡里・十二道守里、西北二条十宮処新里・十一宮処西新里、西北三条九直尾里・十直尾西里・十一野田里・十二野田里、西北四条十垂水里にわたっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報