遼陽の戦(読み)りょうようのたたかい

山川 日本史小辞典 改訂新版 「遼陽の戦」の解説

遼陽の戦
りょうようのたたかい

1904年(明治37)8~9月,日露戦争における大規模な陸戦旅順攻略と同時に行われ,日本は13万,ロシアは22万の兵力を投入し,戦闘は激烈をきわめた。ことに首山堡(しゅざんほ)の争奪をめぐる攻防激戦で,日本軍は9月4日にようやく占領,遼陽を包囲されることを恐れたロシア軍は退却した。この後ロシア軍は新鋭兵力を加えて10月にも反攻したが(沙河会戦),撤退した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の遼陽の戦の言及

【日露戦争】より

…6月に満州軍総司令部が編成され,総司令官に大山巌,総参謀長に児玉源太郎を任命し,その下に第1軍から第4軍が統轄されることになった。8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」