那須資晴(読み)なす・すけはる

朝日日本歴史人物事典 「那須資晴」の解説

那須資晴

没年:慶長14.6.19(1609.7.20)
生年弘治2(1556)
戦国時代の武将。大膳大夫,修理大夫。資胤の子。家督継承して下野国(栃木県)烏山城主になって以後,周辺の強豪である宇都宮・佐竹・白河氏らと攻防を展開する。天正18(1590)年,豊臣秀吉による小田原攻めへの参陣を拒否したため,その罪を問われ,所領8万石を没収された。のちにその罪を許されて下野国福原(栃木県大田原市)に5000石を給せられた。関ケ原の戦では徳川方として参加したため,1000石を加増された。

(伊藤喜良)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「那須資晴」の解説

那須資晴 なす-すけはる

1556-1609 織豊-江戸時代前期の武将。
弘治(こうじ)2年生まれ。那須資胤(すけたね)の子。那須資景の父。下野(しもつけ)(栃木県)烏山(からすやま)城主。宇都宮氏,佐竹氏らと勢力をあらそう。天正(てんしょう)18年豊臣秀吉の小田原攻めにおくれ,一時所領を没収された。関ケ原の戦い東軍につき加増された。慶長14年6月19日死去。54歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の那須資晴の言及

【下野国】より

…小田原城はこの年7月5日には開城したが,それまでに皆川広照は徳川家康の内応工作に乗り,手兵100余名を率いて出城していた。このほかで看過できないのは,下野国きっての名族小山秀綱(小山城主)と那須資晴(烏山城主)の動向であった。まず秀綱は小田原開城2日後に所領没収で故国を去り,資晴は那須衆から孤立して,那須家発祥の地佐良土への退隠を余儀なくされていた。…

【那須氏】より

…室町時代には足利氏に仕えたが,戦国争乱期には烏山城に拠って,那須郡,塩谷郡など下野東北部を支配下におさめ,支族福原氏と協力して近隣諸士の侵攻を防いだ。那須資晴(1556‐1609)のとき,勢力を最も強め,佐竹氏,宇都宮氏などと対立した。資晴は,豊臣秀吉の小田原攻めに遅参して領地を没収され,一時不振となったが,関ヶ原の戦後は,徳川氏に仕えて家名を挽回した。…

※「那須資晴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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