フェリペ[2世]
Felipe Ⅱ
生没年:1527-98
スペイン王。在位1556-98年。神聖ローマ帝国皇帝を兼ねた父カルロス1世(カール5世)からスペインとその海外領土(インディアス,ナポリ,シチリア,サルデーニャ)およびミラノとフランドルを継承し,1581年には母親がポルトガル王家出身であったことから,断絶によって空位となったポルトガル王位をも占め,その支配圏は未曾有の広がりをもった。
版図の拡大は国際政治におけるスペインの責任と負担の増大につながった。スペインを中核とするハプスブルク体制に執拗に反発するフランスとの対立,西部地中海をうかがうオスマン・トルコの脅威,宗教改革による西ヨーロッパの分裂というカルロス1世以来の課題は,フェリペの治世にはますますその切迫の度を深めた。わけてもカルビニズムが浸透したフランドルの暴動(1568)は近代初の独立運動へと発展し,約80年にわたってスペインを泥沼戦争に引き込む一方,反乱を支援するイギリスとの関係悪化という新たな難問をフェリペに突きつけた。この困難な事態に直面した同王には,スペイン王,ハプスブルク家の一員,そしてカトリック・ヨーロッパ防衛の第一人者という三つの立場があったが,これらはおのずから錯綜して最終的にはスペインを抜き差しならない状況に追い込んでいった。
王権に従順なカスティリャの忍耐とインディアスからもたらされる相当量の銀を支えにフェリペは積極的な対外政策を展開した。ユグノー戦争下のフランスへの干渉,反乱を起こしたフランドルに対するかたくなな強圧政策,不敗のトルコ艦隊を破ったレパントの海戦での主導権,そして予期せぬ失敗に終わった通称〈無敵艦隊〉の派遣などがその表れである。またこれと並行してスペイン人の国外留学を禁じ,外国書籍の輸入に厳しい検閲を課すなどして,プロテスタンティズムのスペイン侵入に細心の注意を払った。この間,異端審問所が王の意向に沿って重要な役割を演じた。
フェリペ2世の治世は,政治の視点に立てばスペインの〈黄金の世紀〉の頂点に立つ。しかし,これを支える経済力はその治世の初めからすでに破綻をきたしていた。カルロス1世が残した借財のために,フェリペの王室財政は即位の翌年に早くも支払不能に陥り,その後さらに2度の支払不能宣言を余儀なくされた末に,父親から引き継いだ借財の5倍もの負債を息子フェリペ3世に残した。この乱脈極まりない王室財政の下で,スペインとりわけカスティリャの産業と経済はその基盤を破壊され,それはやがて17世紀中葉のスペインの敗北へとつながっていく。
→スペイン帝国
執筆者:小林 一宏
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フェリペ2世
フェリペにせい
Felipe II
[生]1527.5.21. バリャドリド
[没]1598.9.13. エスコリアル
スペイン王 (在位 1556~98) ,フェリペ1世としてポルトガル王 (在位 80~98) 。カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カルル5世 ) とポルトガル王女イサベルの子。従妹のポルトガルのマリア (43) ,イングランド女王メアリー1世 (54) らと4回結婚。 1556年カルロス1世の退位により,アメリカ大陸の植民地をはじめ,ミラノ,ナポリ,シチリア,ネーデルラント,フランシュ・コンテなどの海外領土とともにスペインの王座を継承。新大陸の植民地から流入する貴金属や広大な領土を擁してスペインは未曾有の繁栄期を迎えた。 59年にはカトー=カンブレジの和約を締結し,長年続いたイタリア戦争を終結。 71年レパントの海戦でトルコに大勝し,スペインの国際的地位を高めた。しかしネーデルラントに独立運動が起り (68) ,北部7州は独立を宣言 (81) 。 80年ポルトガルの王位継承権を行使してこれを合併したが,イングランドとの戦いでは無敵艦隊 (アルマダ) の全滅 (88) により海上権を失い,大帝国衰退の第一歩を印した。一方,エスコリアル宮殿の建設 (63~84) をはじめ,絵画など美術の保護に努め,スペイン文化の黄金時代を築いた。なお天正遣欧使節の伊東満所らは,前後3回にわたってフェリペ2世に接見した。
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フェリペ2世(フェリペにせい)
Felipe Ⅱ
1527~98(在位スペイン王1556~98,ポルトガル王1581~98)
スペイン王。ポルトガル王としてはフェリペ1世。カルロス1世の子で,カトリック的教育を受ける。1554年にはイギリスのメアリ女王(1世)と結婚。56年,父の退位によりスペイン,ナポリ王国,ミラノ公国,ネーデルラント,アメリカ大陸を含む大領土を継承。80年にはポルトガルを併せ「太陽の沈まぬ国」の王として君臨した。植民地政策ではフィリピン支配を確立し,レパントの海戦でオスマン帝国を破ったが,産業的基礎を欠くその国家財政は,あいつぐ増税にもかかわらず不安定をきわめた。また王自身の厳格なカトリック信仰を反映した宗教的不寛容政策は,北ネーデルラント(オランダ)の独立戦争を誘発した。この意味で,その治世はスペイン絶対王政絶頂期にありながら,その後の国力衰退への前徴を示していたともいえる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
フェリペ2世
生年月日:1527年5月21日
スペイン王(1556〜98)
1598年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のフェリペ2世の言及
【エル・エスコリアル】より
…スペインの首都マドリードの北西約50kmにある王室修道院・離宮。スペイン・ルネサンス建築の完成を示すもので,また反宗教改革の旗手を任じたフェリペ2世の時代の一大記念碑である。聖ラウレンティウス(サン・ロレンソ)に捧げられ,正式名称はサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院。…
【エレラ様式】より
…スペイン・ルネサンス建築の代表作[エル・エスコリアル]修道院・離宮の建築家フアン・デ・エレラJuan de Herrera(1530‐97)にちなんだ様式名。対抗宗教改革の推進者フェリペ2世のいう〈単純な形態,厳正な総体,気負いなき気品,虚飾なき威厳〉を実現した様式である。エル・エスコリアルにみるような左右対称の構成,装飾的な要素の排除,長方形を主体とした開口部など純然たる構造そのものを旨とする峻厳な様式。…
【オランダ】より
…ロッテルダムのエラスムスは生涯の多くを国外で過ごしたが,平和と寛容を基調とする彼の人文主義はのちのちまでこの地方の市民に大きな影響を与えた。
[オランダ共和国――経済,文化の黄金時代]
1555年カール5世はネーデルラントの統治を息子フェリペ2世(スペイン国王,在位1556‐98)の手にゆだねた。59年以後スペインに住むフェリペはブリュッセルに執政を置いて,ネーデルラントを統治させた。…
【オランダ共和国】より
…[ネーデルラント]北部の7州がユトレヒト同盟(1579)を結成し,スペイン国王フェリペ2世の統治から独立して建国した連邦共和国。正式には〈ネーデルラント連邦共和国〉。…
【シチリア王国】より
…国家や有力な領主の収奪の結果,経済はしだいに衰え,治安も悪化した。[フェリペ2世](在位1556‐98)は山賊や領主層の反乱を鎮圧することに努力した。16世紀のシチリアはなお西地中海の穀倉であり,そのほか絹,砂糖,ブドウ酒,皮革などを輸出し,手工業製品を輸入していたが,貿易はジェノバ,フィレンツェ,カタルニャなどの外国商人が支配していた。…
【スペイン帝国】より
…こうして結局カルロスは外敵トルコとの対峙以前にヨーロッパで相次ぐ戦争を強いられ,しかもひとつとして決定的な勝利を得られなかった。彼が帝位を弟のフェルディナントに,カスティリャとアラゴンの王位を息子フェリペに譲って失意のうちに退位したとき(1556),問題は何ひとつ解決されていないばかりか,彼の帝国政策の最大の支えとなったカスティリャの財政は早くも危機的な赤字を負っていた。これらはむろん王位とともにフェリペが引き継がなければならない遺産となった。…
【八十年戦争】より
…オランダ独立戦争ともいう。 スペイン国王フェリペ2世(在位1556‐98)の中央集権政策に対して身分的,地域的諸特権を擁護する貴族や都市の反抗,また厳酷なカトリック政策に対する新教徒や寛容派の反抗はすでに1560年前後に始まった。まず司教区制の改革をめぐる紛議ではオラニエ公[ウィレム1世],[エグモント伯]ら上級貴族が結束し,64年執政パルマ公妃マルガレータ(マルハレータ)Margarethaの側近筆頭グランベルA.P.de Granvelleを退去させたが,65年いっさいの政策変更を峻拒した王の〈セゴビア書簡〉を契機に反抗の主導権は下級貴族の手に移り,その〈貴族同盟〉は66年4月請願書を執政に提出して宗教迫害の停止を求めた。…
【ハプスブルク家】より
…また彼は長い対仏戦争とウィーンを包囲したオスマン・トルコの圧力のために,帝国では諸侯と妥協し,意に反する55年のアウクスブルク宗教和議の翌56年みずから退位し,ここにオーストリア系とスペイン系への両統分立が確定する。
[マドリードとウィーン]
ネーデルラント,イタリアを含む全スペインを譲られたカール5世の子[フェリペ2世](スペイン王,在位1556‐98)のもとで[スペイン帝国]は最盛期を迎え,反宗教改革の担い手としてマドリードに宮廷文化の華を咲かせたが,フランスに加えてエリザベス1世のイギリスを敵に回し,しかもオランダ独立戦争([八十年戦争])に直面する。88年の[無敵艦隊]の壊滅は早くも衰退のきざしとなった。…
【ベルギー】より
…また,ブリュッヘに代わって,アントウェルペンがヨーロッパ最大の商業都市として繁栄するなど,当時のベルギーは,経済・文化とも,ヨーロッパの最先進地帯であった。 しかし,1555年父カール5世からこれを相続したフェリペ2世(スペイン王。在位1556‐98)が,当時この地方に浸透していたプロテスタンティズムの弾圧と旧来の各地方や諸身分の特権を無視した絶対主義的な統治を企てたため,[八十年戦争](オランダ独立戦争)が勃発した。…
【ペレス】より
…スペインの政治家。国王フェリペ2世の秘書であった父ゴンサーロ・ペレスの後を継いで,1567年に同国王の秘書となる。エボリ家などの大貴族の支援を受け,78年まで国王の対外政策に決定的な影響力を行使した。…
【ポルトガル】より
… 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。78年セバスティアンが無謀なモロッコ侵略戦争で戦死して2年後の80年,ポルトガル王位は,ジョアン3世の妹を母に,同じくジョアン3世の娘マリアを妻にもつスペイン王フェリペ2世の手に渡った。衰退期にあったポルトガルの貴族,商人層は,むしろスペインとの併合を望み,上昇期の1385年の危機とは際だった対照をみせている。…
【マドリード】より
…マドリードの発展・拡張は東に向かってなされ,今のプエルタ・デル・ソルPuerta del Solがその出発点となった。 何人かの王がマドリードに滞在することがあったものの,1561年に[フェリペ2世]が王室をマドリードに移すまで,マドリードは司教座もない村にしかすぎなかった。マドリードはスペイン帝国の中心となり,宮廷に伺候する貴族及びその一族,芸術家たちが集まり,人口は1万4000となった。…
【無敵艦隊】より
…1588年,スペイン王フェリペ2世がイギリス制圧のために派遣した艦隊。アルマダとも呼ばれる。…
※「フェリペ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」