野上庄(読み)のかみのしよう

日本歴史地名大系 「野上庄」の解説

野上庄
のかみのしよう

那賀なが郡の南西部、貴志きし川中流域とかめの川上流域にわたる荘園で、平安時代中期には山城石清水いわしみず八幡宮領として成立していた。

延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に「宮寺所所庄園参拾肆箇処事」のうち「応如旧領掌庄弐拾壱箇処」の一つとして野上庄が記され、「那賀郡河南田参拾弐町壱段」とあり、その四至に「東限佐佐小河并星河、南限津介乃高岑并在田(郡カ)、西限玉乃河并名草郡、北限鷹栖蓮華宮堺」と記される。また

<資料は省略されています>

とある。文中所引の治安二年(一〇二二)の国司高階成章の牒によって、野上庄は石清水八幡宮護国ごこく寺建立(貞観五年)の後、根本の荘園とされ、官物地利を免除されたことがわかる。また同官牒に野上庄と並んであげられる伊都いと隅田すだ(現橋本市)の項の記述に「依去寛和二年七月廿二日牒状、国司奉免判状云、件隅田村作田任見開数、如去年可免除正税直等、至于(租)早可弁進之、野上庄新開田事、依無先例不免除」とある。寛和二年(九八六)の牒状によって国司奉免判状に野上庄新開田のことが記されており、この頃野上庄が開かれる途中であったことが知られ、その成立も寛和二年をあまりさかのぼらない時期であったと推定される。


野上庄
のがみのしよう

荘域は須々万本郷すすまほんごうの西南端すぎたおから南流するひがし川より西、徳山市街地西端の浦山うらやま辺りまでの山地といわれるが(徳山市史)、正確な領域は不詳。

大内政弘応仁の乱に際して山名宗全に味方し、応仁元年(一四六七)五月一〇日山口を出陣、六月二日野上に着き、翌日楊井やない(現柳井市)に入り、同一三日同所から乗船して上京した。その時の海賊衆先陣を「ノウヘ海賊」としている(経覚私要鈔)。また伊勢神宮の御師が守札の配布先を手控えた中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分には「野の上、ほんしゆあん」とみえ、「ノノウヘ」と訓じている。野上庄の名がみえるのは、徳山の興元こうがん寺所蔵廃浄福寺文書の天正一九年(一五九一)四月一日付のものに、毛利輝元が浄福寺領として野上庄内一三石九斗八升余の地を打ち渡しているのが唯一である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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