徳山城下(読み)とくやまじようか

日本歴史地名大系 「徳山城下」の解説

徳山城下
とくやまじようか

[現在地名]徳山市桜馬場さくらばば通・橋本はしもと町・昭和しようわ通・飯島いいじま町・糀町こうじまち平和へいわ通・若宮わかみや町・新町しんまち銀南街ぎんなんがい銀座ぎんざ常盤ときわ町・御幸みゆき通・栄町さかえまち本町ほんまち有楽ゆうらく町・代々木よよぎ通・戎町えびすまち野上のがみ町・都町みやこまち新宿しんじゆく通・初音はつね町・相生あいお町・沖見おきみ町・二番にばん町・三番さんばん町・毛利もうり町・児玉こだま町・岐山きさん通・弥生やよい町・梅園うめぞの町・住崎すみざき町・千代田ちよだ町・権現ごんげん町のほぼ全域と、那智なち町・川端かわばた町・柳町やなぎまち月丘つきおか町・緑町みどりまちなど、および大字徳山の各一部

ひがし川の河口、山陽道に面してつくられた萩藩の支藩徳山藩城下町。実際には城はなく御館おたてとよばれた居館を中心としたが、天保七年(一八三六)幕府より城主格を認可され、以降居館を城とよんだ。徳山の名は毛利輝元の次男就隆が、それまで野上とよばれていた地を慶安三年(一六五〇)に徳山と改称したものである。

中世以来野上庄と称されたこの地方は、陶氏が城を置いた富田とんだ(庄)と、鷲頭氏の拠点であった現下松くだまつ市付近の鷲頭わしず庄に挟まれた地であった。

慶長五年(一六〇〇)検地帳では東隣の遠石といしを含んだ地が野上庄、同一五年の検地帳でも野上郷とみえている。

元和三年(一六一七)毛利就隆都濃つの郡の諸村のうちから慶長一五年の検地高にして三万石を内証分知されたことにより、のちの徳山藩が誕生する。この折の領知目録(毛利家文書)によればその内訳は串浜くしがはま(三一七・八九石)久米くめ(二千三五七・八六一石)末武すえたけ(四千八九五・七七二石)下谷くだたに(四二二・六一二石)須々万すすま(三千五八・八一四石)中須なかず(二千五七七・三五一石)切山きりやま(九三九・七二一石)莇地あぞうじ(二七二・一八石)須万すま(三千五八七・四七七石)、須万村のうち金峰みたけ兼田かねだ(一千一六・七九九石)川曲かわまがり(一三九・三五六石)野上村(三千二七・九〇四石)遠石村(一二九・六〇六石)栗屋くりや(一四三・三八五石)相島あいじま(一五一・四二二石)生野屋いくのや(一千二四・六五五石)大藤谷おおふじたに(二四一・三八六石)温見ぬくみ(三四三・七六四石)瀬戸せと(五二〇・五三三石)譲羽ゆずりは(二一八・九五四石)山田やまだ(一千二二・五五五石)河内こうち(二千二九二・八二七石)豊井とよい(二千一八七・六四九石)島田しまた(九二・三一二石)戸田へた(三九一・〇五四石)で、総計三万一千四七三石余であった。税率は七ツ三歩であったから藩の年間収入は二万二千九七六石余の分知ということになる。

しかし元和七年就隆は替地を願い出、串浜・久米・末武・下谷・須々万・中須・切山・莇地および須万のうち金峰と兼田の九ヵ村一万五千八五九石の地を萩藩に返し、代りに富田(五千三三九・四一七石)矢地やじ(二千三二四・四一五石)大向おおむかい(六五七・〇二二石)四熊しくま(一千六四八・八七四石)大道理おおどうり(七四二・四三八石)富海とのみ(一千四二九・〇四石)阿武あぶ郡の奈古なご(一千二〇〇・二九四石)大井おおい(一千四一三・〇〇四石)を新たに受領した(「替地目録案」毛利家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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