日本歴史地名大系 「釜屋番」の解説 釜屋番かまやばん 福岡県:福岡市博多区博多・博多津西町流釜屋番[現在地名]博多区奈良屋町(ならやまち)奥小路(おくしようじ)町・古渓(こけい)町の通りから北に延びる西町筋の両側町。東は萱堂(かやのどう)町、西は芥屋(けや)町、北は市小路町浜(いちしようじまちはま)・西町浜(にしまちはま)の通り(福岡博多近隣古図)。元禄三年(一六九〇)の家数四四(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数四二・間数一一四間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数三五(博多店運上帳)。「続風土記」は「金屋番」と表記する。西町上・西町下・蔵本番(くらもとばん)・奈良屋番を宗湛(そうたん)町とよんだといい(続風土記拾遺)、「宗丹町釜屋番」(石城遺聞)、「西町釜(屋脱カ)番」の呼称もみえる(「津要録」元禄一二年条)。町名は当町の柴藤氏の先祖の孫右衛門が鋳冶を起こしたことに由来するという(石城志)。当町の網屋長右衛門は西町浜の網屋又七とともに福博両市中の天当船五四艘の元締を勤めていたようである(「津要録」宝暦二年条)。船大工市平・庄兵衛も住んでいた(同書同九年条)。〔柴藤家〕 「石城志」によれば柴藤氏は播磨の出身。柴田勝家の一族で織田信長の臣。天正の乱に際し柴藤左京亮兼俊が筑前に下り姪浜(めいのはま)(現西区)に潜居。二子のうち兄松之介は福岡西(にし)町(現中央区)に住し子孫は釜屋市郎右衛門と称した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by