錦部郡(読み)にしごりぐん

日本歴史地名大系 「錦部郡」の解説

錦部郡
にしごりぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「ニシコリ」、東急本に「尓之古里」とある。古くは清音であったが、近代の郡名の訓は「ニシゴリ(内務省地理局編纂「地名索引」)。東は石川郡、北は石川郡と丹南郡(もと丹比郡)、西は丘陵地を隔てて丹南郡と和泉国に接し、南は山岳地域(和泉山脈)となって紀伊国に隣接する。現在ではその境域はおおむね富田林とんだばやし市の西南部と河内長野市の全域にあたる。富田林市ではその北西部の喜志きし新堂しんどうの地は石川郡に属し、富田林町の南の甲田こうだ廿山つづやまの辺りから以南の石川左岸と、石川右岸に沿う板持いたもち彼方おちかたうれしの地域が錦部郡の境域である。西方の丹南郡との境界は、現富田林市と現南河内郡狭山さやま町の境界となっている。しかしそれが古代にまでさかのぼるかどうかは不明で、現境界よりはもう少し東に寄った丘陵の分水嶺線とみるのが穏当であろう。河内長野市の東西の境界線はほぼ古代の錦部郡の境界線と同じと考えてよかろう。条里は石川に沿う平野部に遺構が存し、元慶七年(八八三)九月一五日付の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)に一条・一〇条・一一条の坪付がみえる。

〔古代〕

「和名抄」は当郡に余戸あまりべ百済くだらの二郷を記す。しかし余戸郷を加えての二郷で一郡をなすというのは他に例がなく、また郡域からいっても二郷しかなかったとは思われない。「日本地理志料」はほかに錦部・高向(同書は「多加無古」とよむ)の二郷があったとし、「大日本地名辞書」は新居にいい・百済・余戸・山田やまだの四郷に分れたとする。これらのうち錦部郷のほかは文献史料を欠くので、百済・錦部・余戸の三郷よりなると推定しておく。

錦部郡の史料上の初見は「続日本紀」文武天皇三年(六九九)三月九日条で「河内国献白鳩、詔免錦部郡一年租役」とある。ただし原史料では錦部評であろう。錦部は、錦を織る技術に通じた錦部連や錦部が多く居住したことから、この郡名が生れたと思われる。錦部連は「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)にみえ、「三善宿禰同祖、百済国速古大王の後なり」とあって、百済系の渡来人と伝えられる。また「日本書紀」仁徳天皇四一年三月条には、百済王の族の酒君が日本に対して無礼であったので、百済王はこれを縛って日本に進上したところ、酒君は逃れて「石川の錦織首許呂斯の家」にかくれたという話を伝えている。このことも錦部氏が百済系であることを示す。当郡の百済郷には、錦部氏をはじめとして百済系の人々が多く居住するところから、郷名が生じたのであろうが、「石川の錦織首許呂斯」というのは、錦部郡成立以前は、錦部・石川の両地を含めて石川の地と称していたからであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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