日本歴史地名大系 「錦部郡」の解説
錦部郡
にしごりぐん
「和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「ニシコリ」、東急本に「尓之古里」とある。古くは清音であったが、近代の郡名の訓は「ニシゴリ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。東は石川郡、北は石川郡と丹南郡(もと丹比郡)、西は丘陵地を隔てて丹南郡と和泉国に接し、南は山岳地域(和泉山脈)となって紀伊国に隣接する。現在ではその境域はおおむね
〔古代〕
「和名抄」は当郡に
錦部郡の史料上の初見は「続日本紀」文武天皇三年(六九九)三月九日条で「河内国献白鳩、詔免錦部郡一年租役」とある。ただし原史料では錦部評であろう。錦部は、錦を織る技術に通じた錦部連や錦部が多く居住したことから、この郡名が生れたと思われる。錦部連は「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)にみえ、「三善宿禰同祖、百済国速古大王の後なり」とあって、百済系の渡来人と伝えられる。また「日本書紀」仁徳天皇四一年三月条には、百済王の族の酒君が日本に対して無礼であったので、百済王はこれを縛って日本に進上したところ、酒君は逃れて「石川の錦織首許呂斯の家」にかくれたという話を伝えている。このことも錦部氏が百済系であることを示す。当郡の百済郷には、錦部氏をはじめとして百済系の人々が多く居住するところから、郷名が生じたのであろうが、「石川の錦織首許呂斯」というのは、錦部郡成立以前は、錦部・石川の両地を含めて石川の地と称していたからであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報