コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

正平一統 しょうへいいっとう

1件 の用語解説(正平一統の意味・用語解説を検索)

世界大百科事典 第2版の解説

しょうへいいっとう【正平一統】

南北朝期の正平年間(1346‐70)に一時的に南北朝が合体したこと。足利尊氏観応の擾乱(じようらん)に際し,弟直義追討のため1351年(正平6∥観応2)から翌年にかけて一時的に南朝と和議を結び,そのため北朝の天皇が一時廃位され,年号も南朝年号〈正平〉に統一された。幕府・北朝と南朝との対立抗争のさなか,直義と尊氏の執事高師直との対立に端を発した観応の擾乱によって天下は三分された形となったが,尊氏は背後を固めて東国の直義追討にあたるため1351年10月南朝と和議を結び,翌月には北朝年号〈観応〉を廃し南朝年号〈正平〉を用いて恭順の意を表し,北朝の崇光天皇皇太子直仁親王は廃された。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

世界大百科事典内の正平一統の言及

【崇光天皇】より

…母は陽禄門院三条秀子。1338年(延元3∥暦応1)立太子,48年(正平3∥貞和4)受禅,翌年即位式を挙げたが,51年(正平6∥観応2)足利氏内紛により尊氏が南朝に一時降伏したため(正平一統)北朝は廃され,その翌年光厳・光明両上皇とともに吉野の賀名生に,後に河内天野山金剛寺に移された。57年(正平12∥延文2)還京,伏見に住んだ。…

【南朝】より

…以後約半世紀の間,南朝は足利氏およびその擁立する北朝と対立し,全国各地で争乱がおこった(南北朝内乱)。南朝ははじめ畿内南部や九州,関東などの武士の支持を得て北朝に対抗し,足利氏の内紛に乗じて一時京都を奪還するなどしたが(正平一統),しだいに劣勢となり,関東では足利基氏が,九州では今川了俊がそれぞれ反対勢力を制して室町幕府の全国支配体制が整い,また南朝方の中心楠木正儀(まさのり)が北朝に下り,さらに懐良(かねよし)親王が死去するに及んで南朝方の活動はほとんど影を潜めるに至った。このころから足利氏は南朝の北朝への吸収を図り,1392年(元中9∥明徳3)南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に神器が渡されて両朝は合一した。…

【北朝】より

… 北朝を擁立した足利氏は,はじめのうち尊氏・直義兄弟の対立など内部に対立の種を抱えており,尊氏あるいは直義が戦略上南朝と結ぶこともあった。ことに51年(正平6∥観応2)尊氏は鎌倉に下向した直義とその養子直冬を討つために南朝と和睦し,南朝の要求に従って崇光天皇と皇太子直仁親王を廃し,南朝方が京都を奪還した(正平一統)。しかし和議はわずか5ヵ月たらずで破れ,翌年閏2月には光厳上皇の皇子弥仁親王が践祚して(後光厳天皇),北朝が再建された。…

※「正平一統」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

正平一統の関連キーワード二条為定兼国正平三原物九条道教西園寺公重中院通冬中御門宣明南部政行普一

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone