正平一統(読み)しょうへいいっとう

改訂新版 世界大百科事典 「正平一統」の意味・わかりやすい解説

正平一統 (しょうへいいっとう)

南北朝期の正平年間(1346-70)に一時的に南北朝が合体したこと。足利尊氏は観応擾乱(じようらん)に際し,弟直義追討のため1351年(正平6・観応2)から翌年にかけて一時的に南朝と和議を結び,そのため北朝の天皇が一時廃位され,年号も南朝年号〈正平〉に統一された。幕府・北朝と南朝との対立抗争のさなか,直義と尊氏の執事高師直との対立に端を発した観応の擾乱によって天下は三分された形となったが,尊氏は背後を固めて東国の直義追討にあたるため1351年10月南朝と和議を結び,翌月には北朝年号〈観応〉を廃し南朝年号〈正平〉を用いて恭順の意を表し,北朝の崇光天皇,皇太子直仁親王は廃された。南朝は尊氏に直義追討の綸旨を与え,尊氏はこれを奉じて子義詮を京都に残して東下し,翌年2月に直義を討った。この間に南朝は政権接収の具体案として,北朝の所持する神器を〈虚器〉として接収すること,北朝が与えた官位・所領等を両朝分裂の1336年(延元1・建武3)当時の状態にもどすことを掲げ,義詮はこの条件を不満として交渉を試みたが,南朝は武力をもって52年閏2月に入京し,義詮を近江へ追った。これに対して義詮は直ちに正平の年号を破棄して再び観応を用い,南朝側が和議を破ったとして軍勢を動員,3月15日には京都を奪還した。これにより早くも正平一統は敗れ,南朝軍は再び吉野に退いたが,その際北朝方の3上皇(光厳,光明,崇光)および廃太子が南朝軍によって連れ去られたため,義詮は幕府存立の大義名分保持の必要から,光厳上皇の皇子弥仁親王(後光厳天皇)を践祚させて北朝を再建し,ここに再び南北両朝が並立することとなった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正平一統の言及

【崇光天皇】より

…母は陽禄門院三条秀子。1338年(延元3∥暦応1)立太子,48年(正平3∥貞和4)受禅,翌年即位式を挙げたが,51年(正平6∥観応2)足利氏内紛により尊氏が南朝に一時降伏したため(正平一統)北朝は廃され,その翌年光厳・光明両上皇とともに吉野の賀名生に,後に河内天野山金剛寺に移された。57年(正平12∥延文2)還京,伏見に住んだ。…

【南朝】より

…以後約半世紀の間,南朝は足利氏およびその擁立する北朝と対立し,全国各地で争乱がおこった(南北朝内乱)。南朝ははじめ畿内南部や九州,関東などの武士の支持を得て北朝に対抗し,足利氏の内紛に乗じて一時京都を奪還するなどしたが(正平一統),しだいに劣勢となり,関東では足利基氏が,九州では今川了俊がそれぞれ反対勢力を制して室町幕府の全国支配体制が整い,また南朝方の中心楠木正儀(まさのり)が北朝に下り,さらに懐良(かねよし)親王が死去するに及んで南朝方の活動はほとんど影を潜めるに至った。このころから足利氏は南朝の北朝への吸収を図り,1392年(元中9∥明徳3)南朝後亀山天皇から北朝後小松天皇に神器が渡されて両朝は合一した。…

【北朝】より

… 北朝を擁立した足利氏は,はじめのうち尊氏・直義兄弟の対立など内部に対立の種を抱えており,尊氏あるいは直義が戦略上南朝と結ぶこともあった。ことに51年(正平6∥観応2)尊氏は鎌倉に下向した直義とその養子直冬を討つために南朝と和睦し,南朝の要求に従って崇光天皇と皇太子直仁親王を廃し,南朝方が京都を奪還した(正平一統)。しかし和議はわずか5ヵ月たらずで破れ,翌年閏2月には光厳上皇の皇子弥仁親王が践祚して(後光厳天皇),北朝が再建された。…

※「正平一統」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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