日本歴史地名大系 「余戸郷」の解説
余戸郷
あまこごう
余戸郷
あまりべごう
余戸郷
あまこごう
「和名抄」高山寺本には記載がない。「阿府志」は「中田中ノ郷小松島金磯抔ノ地余戸津ナトヽ云言葉ノ残ル所ナリ」とし、「阿波志」は「小松島一名阿摩古、恐余戸之転」とし、野口年長「阿波国郷名考」(大正一二年刊「勝浦郡志」所引)は「大原江田中田小松島中郷論田浦ノ六ケ村則チ余戸ニ営レリ」とする。明治に入り明治一二年(一八七九)の勝浦郡村誌は野口説を引継ぎ、
余戸郷
あまるべごう
「和名抄」所載の郷だが、高山寺本にみえず、訓を欠く。「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に「割常陸国多珂郡之郷二百一十烟、名曰菊多郡、属石城国」とある。五〇戸をもって一郷とすると四郷ができ、残る一〇戸で構成したのが菊多郡の余戸郷である。宝治二年(一二四八)閏一二月日の陸奥国司庁宣案(三坂文書)に「岩城余部内岩間霰松両村巡検」とある。「大日本地名辞書」は
余戸郷
あまるべごう
余戸郷
あまるべごう
「和名抄」は訓を欠く。宇治郡のいずれかの郷より分出・設置されたものであろう。安祥寺伽藍縁起資財帳(東寺蔵)に
とある。これによれば、安祥寺に南接していたことになり、更に「南限山陵」の山陵は天智天皇陵(現山科区)であるからその付近ということになろう。同文書には郷域の里名として「弓絃羽里・山口里・大伏里・石里・阿可里」などがみえているが、山城国山科郷古図(彰考館旧蔵)によれば、二条一九里に弓絃羽里、一条一八里に山口里、二条一八里に大伏里が、それぞれ記されている。
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「和名抄」刊本は「余戸」と記し、
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「和名抄」高山寺本にはみえず、東急本に「全戸」とみえ、訓は欠く。「続風土記」は「余戸」とし、「あまりべ」と読み、「今の印南切目二荘の地ならん」と、現
余戸郷
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「和名抄」刊本にあり、高山寺本にはみえない。「日本地理志料」は
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報