鎌ヶ谷宿
かまがやしゆく
[現在地名]鎌ヶ谷市鎌ヶ谷三―四丁目など
鎌ヶ谷村内に設けられた木下道(行徳道・印西道とも)の継立場。当地は利根川と江戸湾を結ぶ同道の中ほどに位置し、松戸や手賀沼・印旛沼沿岸の諸村にも継立を行っていた。宿の成立は鎌ヶ谷村の立村と同じく寛永六年(一六二九)であったという(松村家文書)。宿場の範囲は近世後期の段階で、ほぼ現在の大仏墓地付近から延命寺付近までと想定でき、明治六年(一八七三)の調査では旅籠屋渡世四軒が確認できる(福田家文書、現在も銚子屋・船橋屋・鹿島屋・丸屋などの屋号を伝える)。また問屋(一軒)は牧士でもあった清田家が勤めていた。
文久三年(一八六三)の定助郷村は中沢村・道野辺村、藤原新田・上山新田・丸山新田・八木谷村・南金杉村・後貝塚村(現船橋市)・大野村(現市川市)の計九ヵ村で、勤高二千二〇〇石余(「返答書」右京家文書)。延享二年(一七四五)の助郷請証文(浅海家文書)では中沢・道野辺両村が松戸・小金両宿(現松戸市)の助郷再編成に関連して当宿助郷を改めて請負っており、前出九ヵ村すべてが当初からの定助郷ではなかったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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