日本歴史地名大系 「鎌ヶ谷市」の解説 鎌ヶ谷市かまがやし 面積:二一・一一平方キロ千葉県の北西部に位置する。北は松戸市と東葛飾(ひがしかつしか)郡沼南(しようなん)町、東は印旛(いんば)郡白井(しろい)町、南は船橋市、西は市川市と接する。市域の大部分は下総台地上であるが、真間(ママ)川水系の大柏(おおがしわ)川(上流は谷地川)、手賀(てが)沼に注ぐ大津(おおつ)川・金山(かなやま)落、印旛沼に注ぐ二重(ふたえ)川(下流は神崎川)の最上流部にあたり、これら河川の谷津が発達している。市の中央部を南北に東武鉄道野田線が、北西から南東方向に新京成電鉄が、また北部を東西に北総開発鉄道が貫いている。主要道路は北部を国道四六四号が横断し、南部を主要地方道市川―印西(いんざい)線(通称木下街道)が南西―北東方向に走り、中央部を主要地方道船橋―我孫子(あびこ)線(通称船取線)が縦断する。市域最古の遺跡は二万三千年前と推定される東林跡(ひがしはやしあと)遺跡(初富)であり、ほか中世までの遺跡が一三〇近く確認されている。住居跡から人骨約六体が発見された根郷(ねごう)貝塚(縄文時代中期、中沢)、多数の土偶・祭祀用土器・石製品が発見された中沢(なかざわ)貝塚(同後期、中沢)、墨書土器と高床式建物跡が発見された双賀辺田(すがへた)遺跡(奈良時代末―平安時代初期、中沢)、多数の板碑が発見された萬福寺境内(まんぷくじけいだい)遺跡(鎌倉―室町時代)などが注目すべき遺跡である。文永九年(一二七二)一〇月二九日の関東下知状(相馬文書)に市域北部にあたる粟野(あわの)村と薩摩(さつま)(佐津間)村の名がみえ、南北朝期まで両村が相馬氏の支配地であったことが知られる。一方、南部の中沢・道野辺(みちのべ)の二村は八幡(やわた)庄内であったと思われ、南北朝期には千葉氏の支配下にあった。戦国時代末期には市域は小金(こがね)城(現松戸市)城主高城氏の支配下に組入れられていたと考えられる(高城家文書)。〔近世〕市域には五ヵ村があり、ほかに軽井沢(かるいざわ)新田・一本椚(いつぽんくぬざ)新田などがあった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by