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大原幽学 おおはら ゆうがく

美術人名辞典の解説

大原幽学

江戸後期の道学者尾張生。名は実証、号は幽学・錦江堂、通称は左門名古屋藩を脱して高野山に登り仏学を修め、また近藤造酒に神道を学ぶ。性理の道を明らかにし各地を巡り農村振興に尽した。安政5年(1858)歿、62才。

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デジタル大辞泉の解説

おおはら‐ゆうがく〔おほはらイウガク〕【大原幽学】

[1797~1858]江戸末期の農村指導者。神道・仏教・儒教を学び、下総(しもうさ)国香取郡長部村で村民を指導して村の建て直しを図ったが、幕府の圧力をうけ自殺。彼がつくらせた土地共有組織「先祖株組合」は、農業協同組合運動の先駆となった。著「性学趣意」「微味幽玄考」など。

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百科事典マイペディアの解説

大原幽学【おおはらゆうがく】

江戸末期の農村指導者。通称左門,号は幽玄堂,晩年に幽学。出自不詳。儒学,武芸,典故,観相易を学ぶ。若くして家を出,諸国を巡歴,天保期の凶作に悩む房総南部にも至った。
→関連項目経世家干潟[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大原幽学 おおはら-ゆうがく

1797-1858 江戸時代後期の農民指導者。
寛政9年3月17日生まれ。神儒仏,易学,農業技術に通じる。天保(てんぽう)13年から下総(しもうさ)香取郡(千葉県)長部村で性学(道学)をもって農民を指導。先祖株組合(協同組合の先駆)を結成し,耕地整理などに成果をあげた。幕府の弾圧で安政5年3月8日自刃(じじん)。62歳。尾張(愛知県)出身。幼名は才次郎。名は実生。通称は左門。著作に「性学趣意」「微味幽玄考」など。
【格言など】己れ人を愛すれば,人も亦我れを愛して則ち和す(「微味幽玄考」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

大原幽学

没年:安政5.3.7(1858.4.20)
生年:寛政9(1797)
江戸時代後期,農民の教化活動および村落改革の指導者。尾張(名古屋)藩士大道寺玄蕃の次男といわれるが出自不明。18歳から15年間畿内,中国,四国各地を遊歴し,神,仏,儒,易や進んだ農業技術などを学ぶ。34歳のとき社会教化活動への道を決意する。信州上田,小諸,江戸,湘南,浦賀を遍歴し,終生の地下総国香取郡(千葉県香取郡)長部村で教化活動と村落の改革に着手する。前者では,心の和合等を説く性理学により,教導所・改心楼で教化活動に当たった。後者では先祖株組合を結成し共有財産による農家の永続を図り,農業生産の改革を指導する。やがて関東取締出役からの嫌疑を受け,教導所を取り壊され,先祖株組合も解散させられ,自殺した。幽学思想の基本は,「吾れ一人にて成る者にあらず,所謂人に渡りて以て成るの者也」(『微美幽玄考』)にあるといわれる。<参考文献>中井信彦『大原幽学』

(渡辺弘)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおはらゆうがく【大原幽学】

1797‐1858(寛政9‐安政5)
江戸末期の農村指導者,経世家。幼名才次郎,通称左門,号を幽玄堂,晩年に幽学。尾張藩士大道寺氏の次男といわれるが出自不明。少年時から儒学,武芸を学び,長じて典故,観相,易を学ぶ。18歳のとき事情あって家出,近畿,中国を巡歴,34歳のとき,伊吹山で禅的開悟を機に救世済民の道に進むことを決意。天保期は全国的に不作で,米価騰貴のため農民や町人の騒動がたえまなく,巡歴した房総南部の疲弊にはとくに心を痛めた。1842年(天保13)下総香取郡長部村に定着,村の改革に後半生を捧げた。

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大辞林 第三版の解説

おおはらゆうがく【大原幽学】

1797~1858) 江戸後期の農民指導者。名古屋の人。神道・儒教・仏教・卜占に通じ、三教混合の心学的な「性学」と呼ばれる独自の教学を説いた。諸国を巡歴後、下総しもうさ国香取郡に定着し、農業技術を指導。彼の組織した先祖株組合は農業協同組合の先駆をなす。幕府の圧迫をうけ自殺。著「口まめ草」「性学趣意」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大原幽学
おおはらゆうがく

[生]寛政9(1797).尾張
[没]安政5(1858)
江戸時代後期の道学者,農民指導者。尾張藩士大道寺玄蕃の養子となる。文化 11 (1814) 年 18歳のとき,家を辞し経学,仏教,神道を学び,これ以後諸国を遍歴すること 20年。天保6 (35) 年最後の地である下総国香取郡長部村名主遠藤氏に寄食しながら関東地方を遊歴し,農業経営,農村復興のための耕地整理,栽培技術の指導にあたる一方,道徳を説く。後年遠藤氏の援助のもとで長部村内に八石教会を建て,さらに増築して改心楼をつくり,多数の地方青年に,精神教育と農業指導を行う。彼の学問は神儒仏混交思想で心学に近いものである。安政4 (57) 年江戸幕府より嫌疑を受け,翌年自殺。主著『微味幽玄考』『性学趣意』。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大原幽学
おおはらゆうがく
(1797―1858)

江戸後期の農村改革思想家。尾張(おわり)藩家老大道寺(だいどうじ)氏の一族とも、幕府御小人目付(おこびとめつけ)高松彦七郎の弟という説もあるが出自は不明。ただし、武士の出身であることは確かである。少年時代から家を出て、関西方面を遊歴し、神儒仏をはじめ易学、観相など種々の学問、先進農業技術などを身につけた。1830年(天保1)江州(ごうしゅう)(滋賀県)伊吹山松尾寺を訪ね、提宗和尚(ていそうおしょう)の激励を受けて社会教化の実践を決意し、中山道(なかせんどう)を経て信州(長野県)上田に至り、富商小野沢六左衛門に寄寓(きぐう)して道学の講義を開講、徐々に門人も増えたが、1年で上田を去り江戸に向かう。その後、相模(さがみ)(神奈川県)から房総の各地を巡歴、1833年ごろから下総(しもうさ)国(千葉県)香取(かとり)、海上(うなかみ)、匝瑳(そうさ)3郡の東総の村々を中心に道を講じて巡講、彼独特の教学を「性学」と名づけ、村々に性学門人が増加していった。1835年香取郡長部(ながべ)村名主遠藤伊兵衛に招かれて性学を説いて以後、ここを中心として北総の村々を巡講するに至った。
 ここで『性学趣意』『微味幽玄考』などの書を著すとともに、荒廃した農村復興のために土地共有組織「先祖株組合」を結成させて農家永続の策をたて、また農地の交換分合、耕地整理などから農作業、施肥などの農事指導まで行い、1848年(嘉永1)には長部村は領主から模範村として表彰されるまでになった。
 しかし、門人数の急増、教導所「改心楼」の建設などが関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の嫌疑を受け、幕府評定所(ひょうじょうしょ)の取調べを受けることとなる。1857年(安政4)幕府の判決が下り百日押込(おしこめ)の刑を申し渡され、江戸にて謹慎、翌1858年2月刑期を終えて長部村に帰村、3月8日未明に遠藤家墓所で自殺した。墓は自刃した場所にある。なお千葉県旭(あさひ)市長部の大原幽学記念館に遺品、関係資料があり、傍らに幽学の当時の居宅がある。[川名 登]
『中井信彦著『大原幽学』(1963/新装版・1989・吉川弘文館) ▽木村礎編『大原幽学とその周辺』(1981・八木書店)』

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367日誕生日大事典の解説

大原幽学 (おおはらゆうがく)

生年月日:1797年3月17日
江戸時代末期の思想家
1858年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内の大原幽学の言及

【経世済民論】より

…ほぼ同時代の大蔵永常はリアルな農業技術者として,民に利を得させてはじめて為政者の利となることを主張し,尊徳の稲作中心の増強策に対し商品作物の栽培・加工を重視し,実践指導した。また大原幽学は1838年,日本における農業協同組合の先駆である先祖株組合を4ヵ村に結成させた。【塚谷 晃弘】。…

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