木下河岸(読み)きおろしかし

日本歴史地名大系 「木下河岸」の解説

木下河岸
きおろしかし

[現在地名]印西市木下

利根川水運の河岸場。木颪とも記された(「成田の道の記」「木曾路名所図会」など)。江戸から常陸・下利根川筋へ向かう基点とされ、木下道(行徳道)銚子道と結ばれる交通の要所。対岸布川ふかわ(現茨城県利根町)への渡船場でもあった。またおもに銚子方面からの鮮魚荷揚げされ、下利根川筋へ船で下る旅人の乗船場でもあった。寛永(一六二四―四四)頃に成立したとされるが、当時は船が手賀てが沼に直接出入りできたため、木下河岸の利用は少なかったという。当初は関所的機能をもち、往来男女の改めも行っていた(吉岡家文書、以下断りのない限り同文書)。明暦期(一六五五―五八)から年貢を納入し、陸奥・水戸・鹿島・銚子および近郷の旅人・諸荷物を輸送してきたという(明和九年「竹袋村明細帳」印西町旧記)。元禄三年(一六九〇)の幕府廻米津出浦々河岸之道法并運賃書付(徳川禁令考)に木下河岸とみえ、三〇里の江戸まで運賃米一〇〇石につき二石三斗であった。明和九年(一七七二)当時、川岸場御米積場は竪二七間・横二二間で領主普請、川岸場諸荷物付場付下し場は四ヵ所、船入堀一ヵ所。茶船は二〇艘でいずれも極印船、小船一二艘は元禄元年守屋代官の時に極印船とされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の木下河岸の言及

【印西[市]】より

…利根川南岸にあり,市域は下総台地上に広がる。中世はこの地に印西荘があり,近世には木下河岸が利根川水運の要衝として栄えた。木下河岸は銚子往還の中継所で,銚子とは船で連絡し,江戸とは陸路で結ばれた。…

※「木下河岸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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